なにか、大切ななにかがなくなっていたことに気付いて、私はそれを追いかけるように手を伸ばす。これが夢の中なのか、現実の世界なのかも分からないまま。……ぼんやりと伸ばされた手は、ぽふんと虚しく敷布を叩く。私だけのものじゃないぬくもりが籠もった布を。うにゃ。なんだか自分が変な呻き声を零したことに気付いた。薄手のタオルケットの感触。タイマーをかけた扇風機はまだ首を降っている。電灯はいちばん小さい橙色。そして先輩はいなかった。先輩。先輩。
 ……重い寝起きの意識の中で、私はやっと思い出すのだ。私は先輩の部屋にお泊りしていて、いつものようにお風呂を頂き、いつものようにお話したり、くっついたり、つまるところにいちゃいちゃして(いちゃいちゃだって。えへへ)、いつものように一つの布団に潜り込み、おやすみの言葉を交わしていたのだということを。
 そして今、私は目を覚ました。頃は深夜で、日曜日の夜が更けた月曜日(海の日だから、休日だ)のはじまりで、置時計に視線が届かないから分からないけど、たぶん二時ぐらいだと思う。確証はまるでない。でも、何というか、そんな雰囲気。じゃあ、どうして覚醒したのかというと、それは先輩が布団から抜け出したからだ。先輩のぬくもりがなくなっていたことに気付いたからだ。ずっとあったものがなくなっているということ。不安。欠落。先輩は気付いていないと思っておられるのだろうけど、分かってしまうものなのだ、こういうことは。だって私は、先輩のことが好きで、好きで、大好きなのだから。
 ぬくもり。今は七月中盤で、人肌の暖かさを求めるような季節じゃない。でもそんなことは関係ない。いつでも先輩は私にとってのぬくもりだ。冬でも夏でも、秋でも冬でも関係ない。ついでに個人的な趣味を言ってしまえば、熱帯夜の暑さでぺっとりしている、汗ばんだ肌と肌とがが交わり合うのがきもちよかったりとかもする。……変な子だとは自覚している。でも、だって、相手が先輩なのだから、これは仕方がないことだと思う。
 それで、先輩がいない理由。布団を抜け出している理由。どこに行ってしまったのだろうか。私を置いて、どこに行ってしまったというのだろうか。……私には分かっている。何度か同じような経験をしたことがあるからだ。つまり、何かというと、先輩は、煙草を吸いに、ベランダに出ておられるらしいのだった。
 煙草。そう、私の先輩は喫煙者だ。愛喫しておられるのは、ラッキーストライクという名の海外の銘柄らしい。たーる値とかにこちん値とかはよく分からないのだけれど、インターネットで調べてみると、ロックミュージシャンがよく吸っているものだそう。先輩らしいなあ、と、ちょっこっと笑ってしまうのはご愛嬌。それで、私はいやらしい子だから、たまに箪笥の奥の煙草の箱をチェックしてみたりもしてみてしまう。それによると、どうやら先輩は、二か月に一箱ほど空けておられるらしいのだ。六十日で二十本。つまり三日で一本ぐらい。それが多いのか少ないのか、もちろん体感的には分からないけど、いろいろ情報を集めてみた限りでは、世間的にはずいぶん控えめな方らしい。
 ……それで。
 その先輩が、私の前では煙草を吸っている姿を決して見せない先輩が、ときたま夜半に布団を抜け出し、ベランダで喫煙しておられるということを、私は実は知っている。……だって、それは、気付かないわけがない。
 私はもぞりと身体を動かし、芋虫のように這い進み、枕に顎を乗せてみる。薄明りと曇り硝子の向こう側、確かに見える。先輩の後ろ姿が見える。蛍のような火がちらりと瞬く。やっぱり、煙草だ。
 先輩。先輩。私の大好きな、先輩。
 その先輩が、こういう時に、どうして煙草を吸っておられるというのだろうか。……多分だけれど、その答えも私には分かっている。分かっているというか、推測している。自意識過剰だとは知っている。こんなこと、頭の端に乗せるだけでも恥ずかしい。でも、そう思えているのだから仕方ない。仕方ないのだ。
 つまり。
 先輩は、何というか、ああ、ほんとに、何というか、私と一緒の布団で寝ていて、私に対して「そういう」気分になってしまったときに、自分を落ち着かせる為に、ベランダで一服しておられるのではないかと思うのだ。
 ……ほら、やっぱり、自意識過剰。自意識過剰で、分不相応で、恥ずかしい。でも、そう思うに足るだけの証拠が、その蓄積が、あってしまったりしてしまう。……うん、いろいろ、いろいろだ。私は確かに生娘(自分でもどうかと思う表現だなあ)だけれど、それほど無知というわけじゃない。だから、たまに、気付いてしまうことがある。先輩の興奮に。それと私自身の興奮に。なにか硬いものが当たる感覚は無視しようとしても出来ないし、下腹の奥で潤む熱から眼を逸らし続けることも出来ない。
 ガラス越しの先輩は、どうやらベランダの手摺に肘を乗せているのであるらしい。片手には赤熱を宿す紙巻煙草、もう片手にはボックス型の携帯灰皿。いつこっそりと探し当てても、灰皿は綺麗に洗われていた。先輩はまめなひとなのだ。私の好きな先輩は。……そして、そう遠くない昔、つい先日、その先輩は私に言った。これからは、「そういうこと」もしていこう、と。そういう風に、ふたりの関係性を変えていこう、と。
 正直に言って、私はとても驚いた。とてもとっても驚いた。だって、それは、先輩が、あの先輩が。私がどれだけ誘惑しても、絶対に首を縦に振らなかった先輩が。……いや、自覚している。私が先輩を誘っていたのは、そういうたぐいの言葉の数々は、しょせんは冗談の延長線上のものでしかなかったのだ、と。一線を引いていたのは私の方だ。逃げていたのは私の側だ。結局のところ、私は単に怖かったのだ。先輩と、ずっと一緒に過ごした先輩と、「そういうこと」になることが。
 関係が変わるのが怖い。「そういうこと」をする時に、先輩がどう変わってしまうのかが怖い。それと当然のことだけど、痛いのはいやだ。最初はぜったい痛いのだ。現実の世の中は、現実における行為は、すけべなたぐいの漫画のようにはいかないだろう。もちろん経験はないのだけれど、そのぐらいのことは分かる。何故って、私の身体のことなのだから。……私は自分を慰める方法を知っている。だから自分の身体については熟知している。どこをどう触ればどう感じるのかを知っている。今までどこに何が触れていないのかも知っている。繰り返しになるけれど、私自身の身体についてのことなのだ。深窓のお嬢様でもあるまいし、男性と女性のいとなみにおいて、何がどこにどう入るのかぐらいは知っている。私のどこに何が挿し込まれるのかを知っている。
 だから、怖い。
 だからこそ、怖い。
 怖い。
 怖いのだ。
 怖いけど。
 怖いけれども。
 ……それでも。私は。
 先輩と。先輩と。大好きな先輩と。先輩に。先輩になら。「そう」して頂きたいと。「そう」なりたいと。ずっとずっと。そんなふうに。想っていて。願っていて。
 だから。
 私は。 
 ……私はそっと、身体を起こす。衣擦れの音を立てないように。誰にも何にも、星にも月にも気取られることのないように。先輩には、いつも私のことを気にして欲しい。気に掛けていて欲しい。見詰めていて欲しい。でも今は、今だけは、今から私がしようとしていることだけは、絶対に見て欲しくない。気付いて欲しくない。だって、そうなれば、きっと心が折れてしまうから。境界線を踏み越えてゆく、その覚悟がどこかへ消えてしまうから。
 自分の背中に両腕を回す。ぱきりと関節が鳴るんじゃないかとか、おかしな部分でびくびくしてしまうのは仕方ない。先輩はまだ背を向けている。まだ煙草を吸っている。吸い終わるまでにどれくらい掛かるだろうか。一分、二分、もしくはほんの三十秒? 今にも揉み消してしまうかも知れない。私は、私は、手が震えているのは自覚していて、わけの分からない焦りがあって、それからきっと、いやらしい気持ちがあって、後ろ暗い熱に興奮していて。
 寝巻の薄いTシャツの下、慣れ親しんだ金具の手触りは、蒸し暑い夜の象徴みたいになまあたたかい。指で触れ、悩んで惑って、それから、外す。シャツの内側で肩紐を取り、布を、つまり下着を、あからさまに言えばブラジャーを、裾からするりと抜き取った。おかしなぐらいに上手くいった。いってしまった。あはは。これでもう、戻れない。もう二度と戻れない。これまでの先輩と私の関係に。
 先輩の家にお泊りさせて頂くような機会は、これまで何度も、何度も何度も、何度とないほど何度もあった。勿論だけれど、その折にはお風呂を借りていた。今日だってそうだ。そしてその度、一度でさえも忘れることなく、私は下着を着けていた。一線を引くために。言ってみれば、鎧のように。……言い訳するわけではないのだけれど、先輩の側が、「そういう」間違いを起こすと思っていたわけじゃない。でもやっぱり怖かったのだ。「そういう」眼で見られてしまうということが。そして「そういう」眼で見られた時に、私がどんな風に乱れてしまうのかということが。また言うのなら、はしたないと、だらしないと、蔑まれたくなかった。先輩と私の関係性を守りたかった。先輩にずっと好かれていたかった。その為の鎧だった。一人で眠る時には着けたままでいることはないから、やっぱり窮屈ではあった。でもそれを耐えてでさえも外せはしない、だいじな護りの盾だったのだ。
 そして今、それを、捨てた。
 他ならない私の意志で、捨てたのだ。
 ……枕の横に置いた下着は、私の体温であたたかかった。生々しいあたたかさだった。空気が素肌を、今まで隠されていた部分を抜ける感覚。羞恥心より先に、まず心細さを感じた。これでは防御力が低い。ロールプレイングゲームだったらすぐに負けちゃう。……などという、意味の分からないことを考える程、私はおかしくなっていた。戦いに負けたらどうなってしまうのだろうか。やっぱり定番の展開になるのだろうか。「そう」なってしまうのだろうか。でも「そう」なる為にこうしたのだから、それで別に構わないのではなかろうか。というか、何だろう、この変で妙で狂った思考は。
 胸に手を当ててみる。当たり前だけど、パッドの硬さがない。むしろ硬さというのなら、掌に伝わる尖った先端の感触が、いやに現実感を伴ったものに思えてしまう。その奥に鼓動がある。心臓の拍動がある。ばくばくと溢れる血液の流れは、或いは眩暈を引き起こしそうな程。いや、もう眼は眩んでいるのかも知れない。何も見えなくなっているのかも知れない。先輩以外、何も視界に入らなくなっているのかも知れない。だって夏だから。夏の夜が暑いから。だから仕方ない。仕方ないのだ。――ねえ、仕方ないですよね、先輩?
 先輩。
 先輩。私の先輩。私の大好きな先輩。
 私は、水だ。私の情緒は揺れる水面だ。不安定で、いつも揺れ動いていて、どこかおかしなところに流されていってしまいそう。私一人でいたのなら、きっと破滅してしまうだろう。してしまっていただろう。でも先輩がいる。私には先輩がいる。先輩は私の岸辺だ。水という存在は、岸というものがあって初めて、そのあり方が定義され得る。先輩は私に場所を教えてくれる。私に形を与えてくれる。だから大丈夫だ。これから何が起こっても、先輩は私の先輩で、私は先輩の後輩だ。先輩は私の先輩でいてくれる。私だけの先輩でいてくれる。先輩として、岸として、私に道を示してくれる。これまでも。今も。これからも。ずっと。ずっとずっと。
 深呼吸。吸って、吐く。一回、二回。ガラス窓の向こうの人影がこちらを向いた。先輩。静かに窓を引き開ける。私は先輩を見る。先輩も私を見る。眼が合う。視線が重なる。ぎょっとしたような雰囲気。焦げたトーストみたいな煙草のにおい。私はどうにかなりそうで、きっともうどうにかなっていて、一周回って変な具合に落ち着いていて、だからだろうか、驚いた様子の先輩を、なんだかかわいいと感じてしまった。
「先輩っ」
「な――」
 抱き付く。広い胸に顔を埋める。今の顔を見られたくない。今この瞬間だけは。でも、どうせ後から見られることになるのだ。きっと、もっと、あられもない顔を、姿を。
 ぐいぐいと押し付ける。身体を。熱を。先輩の身体に。先輩の熱に。びくりと震えた気配があった。それが私に伝わった。先輩が、何かに気付いたようだった。当たり前だ。気付かれないわけがない。……薄い布一枚越しに、触れて、こすれる。私が知らない感覚。知らなかった感覚。これから知っていくだろう感覚。
 ……先輩が逡巡していたのは、何秒のことだったのだろう。分からない。やがて手が下り、私の髪をやわらかく撫で、肩に落ち、背中をなぞる。抱き返される。身体と身体、熱と熱とがひとつになる。これからどうなってしまうのだろう。そんな不安も興奮の渦に溶けてゆく。興奮の熱に。お腹の奥の湿り気に。夏だから。三連休だから。どうにでもなってしまえばいい。とどきますように。境界線を踏み越えて、何もかもを突き抜けてゆくこの想いが、どうか、どうかとどきますように。
 ぼんやりと、視界が霞む。涙だ。何の為に流した涙なのだろうか。とにかくそれは熱かった。ぬるりと入り込んだ先輩の舌も熱かった。私が零した吐息も熱かった。私は、私が、自分でも聞いたことのない声を漏らしたのを知った。たぶん、きっと、喘ぎ声と呼ばれるものだった。
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