すすす、と近付いてくる。
 ぴたり、と寄り添う。
 にこり、と笑う。
 自分の体温と自分のものではない体温が混ざり合う感覚。触れた場所で身体の熱を交換し、またそれは溶け合って、たちまち別てぬ相に転じる。二つと二つが一つになる。新たな熱が生まれる。己だけのものではなく、彼女だけのものではなく、されど己のものであり、彼女のものであり、つまり二人のものである熱が。……この狭いワンルームアパートの一室において、こうした行為は星より数多に重ねられ、気付けば随分慣れたものになっている。とは言えど、決してその感得に飽きる日がくることはなく、同時に常に心の安らぎを与えてくれるものである。俺は一種の条件反射的な行動で、身体を寄り添わせてきた少女の頭を撫でる。柔らかな艶を湛えた黒髪に掌を乗せ、指先で擽るようにする。滑らかな手触り。少女の頬が緩む。眼差しが優しい光を湛え、面立ちがふわりと崩れる。まるで陽に咲く小さな夏の花のようだと、俺はその微笑みを見て思う。おかしなことだ。今は宵闇時であるというのに。
 うなじで一つに括った髪の毛。ほんの僅かに上気した頬辺。透き通るような首元の肌。白い長袖のシャツ。濃紺のベスト。同じく濃紺のプリーツスカート。スカートの裾から零れた脚の先には、これまた紺のハイソックス。所謂ところの学校制服を纏った少女。俺を先輩と呼ぶ少女。つまり俺の後輩である少女。彼女は高校一年生であり、俺は労働に従事する輩であり、八つ程の年齢差に隔てられているとは言えど、違わず彼女は俺の後輩であり、紛わず俺は彼女の先輩であり、その事実はこの宇宙の実存を定義するよりも先に立つ絶対にして永劫たる真実だ。
 俺は口を開きかける。恐らくは、このようなことを訊ねようとしたのだろう。どうした、今日は常より甘えるな、と。
 だがその文言は、最初の呼吸が零れ落ちるよりも速くに押し留められて霧散する。細くすべやかな少女の人差し指が、俺の唇に押し当てられることにより。
 ――喋らないで下さいね、先輩。
 悪戯っぽく輝く瞳が、優しく、されど圧力を伴ってそう言っている。幼くも、妖艶に。夜気に湿った桜花のように甘やかに。中途半端に咽喉に空気を詰まらせたまま、俺は頷く。頷く以外に取り得る行動はない。彼女がそのようにしたいのならば、俺が否定する理由はない。それにそもそも、抵抗など可能である筈もない。
 よくできました、と言わんばかりに満足気な少女。その指先が、俺の頬をふにふにと押してから離れゆく。しっとりしていているようでもあり、さらさらとしているようでもある柔らかな感触を、それが俄に去ったことを、俺は不思議な程に惜しんでしまう。そのような邪念の所為か、或いは何か仕返しがしたかったのか、俺は少女の髪を擽る手を後頭部へと滑らせて、一つ括りを掻き分け、首元へと届かせる。ふ、と少女の吐息が零れたことを耳に知る。繊細な曲線を描く少女の首は、潤むような微熱を宿している。指の腹が撫でる下、皮下に流れる血流を意識する。少女の命を、存在を。
 そのまま掌を彼女の耳朶に掠めさせると、もどかしそうに、切なそうに、少女の眦が細くなる。更にそれを続けると、びくりと震え、眼の中の光が濡れる。だが一瞬蕩けるようになりかけた表情は、すぐさま誤魔化すように膨れ面へと転じ、少女はじとりとした視線で俺を睨んだ。それはこのように言葉なくして告げていた。
 ――耳は弱いって、いつも言ってるじゃないですか。
 今度は俺が慌てる番だった。直ちに触り撫でる手を離し、されど何処にやればいいのか思い付けずに、そのまま中途半端に宙を彷徨わせてしまう。あ、と少女の口が小さく開く。驚いたような、寂しそうな瞳の色の揺れ動き。更に俺は後悔する。これもこれで、何か間違った行動であっただろうか。
 少女は耳が敏感である、ということは、これまでの触れ合いの中で知っている。他の何をしても(「何をしても」などと言いつつ、そもそもさして過激な行いは為したことがない心算であるが)余り動揺したり怒ったりはしない少女が、ほぼ唯一、激しい反応を起こす場所。
 此度のように、膨れ面を返されることもある。また時には、もっともっとと甘く求められることもある。そのどちらにも属さず、緊張に身を震わせながら受け入れられることもある。――如何なるタイミングにおいて、どうした手出しが要求されているのか。それが判別し難い類の状況。少女の耳に触れる、という行いに纏わるあれこれは、その代表格と言っていい。そして今回は、どうやら予測が外れてしまったようだ。
 ……駄目だ。悪い流れが発生する。疑問が疑問に繋がってゆく。
 そもそも先輩とは何か。また言えば、先輩として後輩を遇することとは何か。繰り返しになるが、彼女が俺の後輩であり、俺が彼女の先輩であるという事実は、岩より確かな真実だ。だが、だというのなら、俺は先輩としてどうあるべきか。どのように「後輩」に接し、どのように「後輩」に関わるべきか。何か、俺が少女の先輩たる立場にある、という自覚が齎す独善や傲慢が発露してしまっていはしないか。――また言うのなら、このように思い悩むことそれそのものが、醜悪な独り善がりに属するものであったりするのではないか。俺は間違え続けているのではないか。何か勘違いをし続けてきたのではないか。
 このように懊悩するような機会は、折に触れては、ふと灰色雲のように立ち現れる。今この時のように。空中に浮かび行き場をなくした指先は、或いは思い悩みの表出であるのかも知れなかった。
 ……その、俺の手を。
 優しく抱き締めるかのように。
 少女の両掌が、捕まえた。
 一間、自己嫌悪の鈍色の海に沈みかけていた俺の意識は、驚きと共に現実世界に引き戻される。まるで大きさの違う俺のそれを、されど包み込むように握る少女の両手。柔らかで、落ち着きを齎す感触。それを自身の胸の前に引き寄せて、きゅっと力を込めて、申し訳なさそうな、だが慈愛の色をも孕んだ苦笑いを湛えている。
 ――ごめんなさい。でも、悩んで下さって、ありがとうございます。
 きっと、そのようなことを伝えようとしている瞳をしていた。……俺の中で、何かが潤む。
 それから少女は俺の手を引き、彼女の頬にそれを添わせる。じんわりと伝導してくる快い熱、温もり。滑らかな手触り。そして彼女は眼を閉じて、すりすりと愛おしむように擦る。それで全てが許されたような気がした。今や己の裡の黒いものは溶解し、形も残さず何処かへ流れ去ったような感覚があった。
 また、このようにも思った。願望として。衝動として。――懊悩し、あるべき答えを探る営みも重要なものではあろう。だが今は、ただ彼女と俺の指先が紡ぐ熱、ただそれだけを感じていたい、と。
 俺は少し腕先に力を入れて、少女に意を伝える。はっと覚醒したかのように彼女は眼を見開いて、はにかみながら頬から離す。片手は解いて、されどもう片方の手で握ることは止めぬまま。俺は更に小さく指先を動かして、次の意を彼女に届かせる。彼女は心得たもので、俺の手を包む力を緩めてくれる。俺は少女の察しの良さに感謝しながら、自由に動かせるようになった五指を彼女の片手のそれに重ねる。長さも太さもまるで違う、されど同じ五本の指の腹と腹が重なり合い、やがて絡まり、別ち難く結ばれる。
 見詰めた。見詰められた。見詰め合った。少女は笑った。あどけなく。頬を淡紅色に染めながら、されど純粋な喜びだけを湛えて。きっとそれが、この瞬間の全世界を定義する全てであった。
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