新しく飲み物を――口に合わぬブラックコーヒーなどでなく、たとえばカフェオレ、さもなくば炭酸飲料の如き何かを――買い直すかと提案したが、彼女はそれを辞退した。聞けば、
「せっかく初めて飲んだのですし、何より奢って頂いたものなので。それにこういうのって、慣れれば美味しくなるのですよね?」
 ……とのことだった。
 なるほど言われてみれば、一理あり、二理あり、また三理ある。俺は「であれば良いが」とだけ言って、取り出しかけた財布を片付けた。
 ちびちびと、舐めるようにコーヒーを飲む(そしてその都度、何とも趣深い表情を浮かべる)少女へと、俺はふと問い掛けた。
「コーヒー自体が初めてなのか? それとも、ブラックが?」
「後の方、ですね。牛乳いっぱいで割ったやつなら、それなりに頂いてます」
「ふむ」
「缶もですけど、コンビニでよく売っている、あのプラスチックボトルのやつが……ええと、何と言いましたっけ」
「チルド、か」
「ああ、それです。ちるどかっぷ」
 少女の口から、まうんとれーにあ、すたーばっくす――と、幾つかのブランドの名が挙がる。それが耳朶を打つのを感得しつつ、俺は意識の一部で思い巡らす。……チルドカップ入りのコーヒー飲料という概念は、ある時期を皮切りに、雨後の筍が如き隆盛を見せたものであるような気がする。今でこそ市民権を得、広く人口に膾炙しているが、十数年前――考えてもみれば、それは随分遠い世界であるような気もする――の時代においては、販売会社もそう多くはなかった筈だ。まして、
「種々様々なフレーバーがあるな。バニラだの、キャラメルだの、チョコだのと」
 色とりどり、数多の味付けなどは、ここ数年で一挙に増えたものであるだろう。
「ですです。そういう普通のもの以外にも、ヘーゼルナッツとか、モンブランとか、ケーキを再現したなにがしかとか、とかとかとか」
 頷きながら聞いていたが、最後の妙なフレーバーについては、俺は目にしたことがない。
「ケーキとは」
 少女は苦笑うように言う。
「あはは。もうなんか、よく分からない領域に入っちゃってるような気もしますよね」
「他はともあれ、ケーキはな」
「でも、そういうのに釣られてみるのもまた一興……」
「なるほど。美味に対するというよりは、見慣れぬ珍奇に対する楽しみ方か」
「というわけです」
 俺の隣に座する少女は、どこか自慢げにそう言った後、唇を潤すようにコーヒーを口にした。バニラでもキャラメルでもチョコでもヘーゼルナッツでもモンブランでもない、ましてケーキ風味でなどありはしない、いかにも無糖ブラックな缶コーヒーを。そしてまたぞろ、何とも言えぬ趣のある表情を浮かべた。
 やや口の中でもごもごとした後、空気を切り替えるように言う。
「あ、そうそう。お安い豆ではありますが、自分でも淹れるのですよ」
「なんと。珍しい」
「そのままでは飲めませんけど、淹れたての香りが好きで――」
 そこで彼女は口を閉ざして、ほんの一瞬の後、思い出したように言を発した。
「と言いますか、缶やチルドのコーヒーと、自分で淹れたコーヒーって、そもそもからして違いますよね?」
 ブラックを味わえない舌で、偉いそうな言い方ですが――と、恐縮めいて付け加える。
 俺は彼女の言葉を咀嚼してみたが、意図するところに辿り着くことが出来ない。格の上下という問題なのか。それとも成分組成の問題なのか。
「ふむ。つまり?」
「えーと。……ラーメン屋のラーメンと、カップラーメンの違いみたいな」
 なるほど。納得のゆく説明である。
「理解した。正鵠を射た表現だ」
「えへへ、どもども」
 彼女はぱっと、花咲くような笑みを浮かべた。俺はそこから、夏の野に咲く小さな花を思い浮かべた。涼風に仄かに揺れる、薄黄色の花弁を。……などという、うそ寒い想起を振り払う。
「即ち、同じ枠に括って考えるべきではない、と。カップ麺はカップ麺であるのだからして、店のラーメンとは切り離して取り扱うべきなのだ、と」
「はい。どっちが上とか下とかではなくて、ラーメンにしてもコーヒーにしても、出来合いのものとそうじゃないのって、それぞれ違うジャンルのものだと思うわけですよ」
「同意する。比べられるものではないな。……ちなみに、ではあるのだが」
「ん、はい?」
 年齢十代半ばの少女が持つ、澄んだ瞳が俺を捉えた。真っ直ぐな視線に聊かの動揺を覚えつつ、俺は訊ねた。
「よく食べるのか。インスタント麺の類は」
「あー……」
 そこで彼女は、迷いや惑いに似た何かを示す。瞳の表面、黒い水面に、名付け難い感情の波がよぎった。……顧みてみれば、迂闊な質問であったかも知れない。一人暮らしの大学生や社会人にはともあれとして、恐らく同居家族を持っているであろう高校生にそれを問うことは、即ち家庭状況について聞き出すのと同様の意味を持つ。――ああ、やはり迂闊そのものの問い掛けだった。誤魔化すような手振りを付しつつ、俺は言った。
「悪い。何でもない」
 すると、少女は。
「ん……」
 ふわりと表情を緩ませて、
「ごめんなさい。……ありがとうございます」
 と、小さく呟くように口にした。
 謝罪するのも、感謝するのも、俺の側であるべきなのに。

「それでですね。そこでその女の人は、『まるで春雨ね、あなた』って――」
「何とまあ、一級品の笑い話だ」
「ですよねっ。ふふふ」
 ……あれから。
 俺と少女は、他愛のない話題のもとに、時を共に過ごしていたのであった。他愛のない――つまり、互いの生活、たとえば学校や職業や家族とは何の関わりもない、学生同士の雑談じみた談話に明け暮れていた。いや、「明け暮れる」という語彙が「夜が明け、日が暮れる」ことを語源としているのだとしたら、「明け」は余計であるだろう。何故というに、今は夕刻なのだからして。
 そうだ。まるで以て文字通り、暮れ泥みかね、西の果たてに消えゆく光が絶えかかるまで、少女と俺は喋り続けた。ラーメンの話題はコーヒーの話題に戻り、コーヒーの話題はカフェインの話題に移り、カフェインの話題はデイヴ・グロールの話題に変わり、デイヴ・グロールの話題はニルヴァーナの話題に転じ、その後唐突にかにかまの話題が始まりを告げ、かにかまの話題は石狩鍋の話題に変わり、北海道の話題へ、熊の話題へ、キャラメルの話題へ――そこから先は、よく分からない。何はともあれ、俺達は話した。話し続けた。周囲を包む空気の色や重さが変わりゆくのも気にせずに、長い時間を何気ない歓談の響きに費やしていた。この機会、この公園で流れた時空の中で、最初に買った缶コーヒーなど、ほんの序盤に飲み干されてしまっていたと言ってよかろう。
 波長が合ったと、そういう月並みな表現を用いるべきかは分からない。用いていいかも分からない。だが何にせよ、俺は彼女と共に過ごす空間に、不思議な程の快さの念を覚えた。嗜好や趣味やものの見方に、妙に通ずる部分があったのだ。
 或いは共感という概念は、前提として唾棄されるべき、危険な幻想ではあるのだろう。それが如何に似通っているのだとして、人と人とが――この場合、少女と俺とが――持ち合わせている認識は、決して等しいものにはなりはしない。人の思考は、感得は、畢竟その者だけのものなのだから。
 それでも、相似を認めることばかりは許されている筈だ。実際のところ、少女と俺の人間性は、また言うならば魂の形状は、驚く程に似通っていると評価されよう。……などという大仰な表現を用いて憚らない程には、俺は彼女との間に交わされた、この一間の談話を楽しんでいた。彼女にしても、それは同様のことだっだろう。多分。恐らく。屹度。また或いは、願わくば。
 だが如何に喜ばしきあわいにも、必ず終端という部位はある。この世界にあるありとあらゆる存在は、必然として終わりを孕む。……太陽が西の空へと沈むのを、昼が夜へと変わりゆくのを、熱と光が消え失せるのを、果たして誰が止められよう?
 俺には俺の生活があり、彼女には彼女の生活がある。
 俺には俺の人生があり、彼女には彼女の人生がある。
 であるからして――そろそろ終わりにすべきだろう。
 話の切れ間、俺はごく自然な風を装って、何気なく言葉を発した。だがそれは希望通りとはゆかず、如何にも不自然なものと響いた。即ち、
「さて」
 と。
「おお。それはもしや、伝統的なあれですか。ミステリ小説の最終章的な、あれですか」
 すっかり砕けたものとなった声色で、嬉しそうに少女は言った。だが屹度、この少女のことである。示す悪戯気な笑みの裡では、俺が何を言い出そうとしているのかを、過たずに察知しているのだろう。……俺はここ一時間強の時間の中で、彼女の発揮する洞察力なるものが、異常に高度であることを思い知らされていたのである。
「また、マニアックな物言いを。……だが、そうではない」
「あはは。……うん、分かってました」
 やはり、だ。彼女はふいに真顔になって、俺から目線をすいと外した。そのまま遥か彼方を望んだ。西の方角を。オレンジの光が失せゆく方向を。頬に寂しげな影が落ちていた。柔らかそうな肌に浮かんだその陰影を、俺はやけに印象深いものと認めた。
 彼女は俺を見た。真っ直ぐに見た。冷えた空気と、濃紺の闇が染める世界において、それは切実な光に濡れていた。
「お別れ、ですよね」
 銀の鈴が鳴るが如き彼女の声質、そこに宿った小さな震えに、一体俺は、如何な反応を返すべきだったのだろう。分からなかった。その日の俺は、何も思い付けなどしなかった。ただ一言、こう返すしか出来なかったのだ。呻きにも似た一言を。
「……ああ」
「あははっ」
 少女は何かを振り切るように、勢いを付けて立ち上がる。釣られて俺も、立ち上がる。古びたベンチがきしりと鳴った。その音は滅びを連想させた。
 くるりとターン。プリーツスカートがふわりと舞った。そして少女は、微笑んだ。空の下。闇の中。ゆるりと吹く風のあわいで。
「公園の出口までは、ご一緒しても構いませんか?」
 俺は。
「うむ」
 頷くことしか、出来なかった。

 無言で歩いた。二人並んで、黙然のままに歩を進めた。葉桜となった梢の下を潜って。煌々と照る街灯光の下を潜って。――目的地には、一分も掛からず辿り着いてしまった。
 自然公園の出口たる木柵の連なりに挟まれて、少女と俺は向かい合う。互いに何も言い出せぬまま、数秒の時が流れた。
 やがて、俺は言った。言わなければならないことを。言葉は闇色をした大気の中で震えた。
「長い時間、付き合わせてしまったな」
「いえいえ。それはむしろ、私に言わせてほしい台詞です。それから、あの――」
 少女は息を吸った。それを言の葉と共に吐き出した。
「――缶コーヒー。ありがとうございましたっ」
 ぺこりと、一礼。殆ど意思の乗らない舌を回して、俺は答えた。
「礼には及ばん。であるどころか、口に合わずに申し訳ない」
「人生経験ってやつですよ。今日あなたと出会わなければ、私はこれからずいぶん先まで、ブラックコーヒーを飲むことはなかったのでしょうし」
「であれば、良いが」
「はい。良かったです」
「良かったか」
「良かったのです」
「……」
「……」
 俺は。
 俺は、確かに、何かを捉えた。この短い遣り取りに、ほんの須臾たるその内に――ああ、何かを、正体を捉えがたい何かを、されどどうしようもない何かを、確と違わず捉えたのだ。俺は言った。言いかけた。
「構わなければ――」
「ん。何ですか?」
「……」
「……むむ」
 ――俺は一体、何を伝えようとしたのだろう。「君を家まで送るとしよう」などと、そう言いかけたのか?
 陽はまだ落ち切っていないとて、もはや空の彼方に濁った橙色を残すばかりだ。晩春の夜は暗く、風は冷たい。この界隈は平和であるが、万が一、胡乱な連中が闊歩している可能性はあるやも知れぬ。であるからして、君を家まで送るとしよう。……馬鹿な。何を馬鹿な。ほんの一刻前に出会ったばかりの間柄である、恐らく八つ程は齢の離れた男が、年端もゆかぬ少女を家まで送る、と? そんな不審者じみた行動が、果たして許されるとでもいうのだろうか?
 まるで、論じるに値せぬ話であった。
「……いや」
 だから、終わりだ。ここで、終わりだ。分かっている。知っている。認めているし識っている。日常のあわいに束の間現れた非日常は、ごく当然の終局を迎える。俺も、少女も、それぞれの日常生活に回帰するのだ。この先、何度か思い返すことはあるだろう。感傷と郷愁に染まる夕焼けの中、日常に生きる少女のことに想いを馳せて、彼女の顔の輪郭を、一寸思い出してみることはあるのだろう。だがそれだけだ。彼女という存在は、記憶という名の記録映像へと変わるだろう。それだけだ。それだけなのだ。
「名残は尽きぬが、ここで別れるとしよう。……改めて言うが、思いがけずに、楽しい時間を賜った」 
「こちらこそです。本当に、……本当に、今日は、ありがとうございました。――」
 呼吸音。吸って、吐く。
 それから、彼女は。
「――先輩」
 そう、言ったのである。
 呆気に取られた。呆然として、殆ど呼吸さえ忘却していた。
「……先輩、か」
 やっとのことで、そう疑問の意を伝えるフレーズを口にした。だが実際のところを言えば、俺は彼女が俺を呼んだ言葉に、何らの疑念も感じてなどいなかった。――また言うならば、「何らの疑念を感じてなどない」という状況そのものに、呆然自失となる程の驚愕を感得していたのである。  先輩。せんぱい。少女が綴り奏でた四文字の音は、俺の心の深い深い深い場所へと、おかしい程に違和感もなく沈み込んだのであった。
 対照的にと言うべきか、少女の側は、自身が発した「先輩」という言の響きに、何やら戸惑っているようだった。
「あの、その。つまりこれは、人生の先輩と言いますか、自転車立ての先輩と言いますか、ええとそれとも、ブラックコーヒーの先輩? ……うぅ、ごめんなさい。自分でもよくわからないのですけれど……」
「いや、なに」
 ふと、笑みが零れそうになった。何にだろうか。彼女が俺を、先輩と呼んだことにだろうか。それとも彼女が慌てていることにだろうか。また或いは、俺がおかしな程に違和感もなく、先輩という呼び名を受け入れていることにだろうか。ともあれ俺は、どうにか口角が吊り上がるのを堪えた。……もしかすると、堪えられていなかったかも知れない。何にせよ、どちらだっていいことだ。
「構わんさ。君が俺をそう呼ぶことに、俺の側に異存はない」
「あ……」
 少女は何度かぱちくりと瞬きをして、それから幾つもの、幾側面もの感情が溶けた表情に顔を歪ませ、潤ませ、緩ませ、やがてきしりと奥歯を噛み締めるようにして、ぎゅっと目を閉じ――そして、ゆっくりと、じんわりと、水面に波紋が広がってゆくように、幼さの残るその顔立ちに、満面の笑顔を形作ったのであった。
「――はいっ。先輩っ!」

 俺は少女を見送った。少女は何度か振り向き手を振り、何時しか街並みの中に溶け去った。俺は自動販売機でいまいちどブラックコーヒーを買い求め、飲みながら家へ帰った。
 その時の俺には、奇妙極まりないものとは言えど、疑い得ない確信があった。もう一度あの少女に会えるだろう、という確信が。現実的に考えるなら、携帯電話の番号も交換していない、名前を教え合ってさえもいない、ただ「公園で会ったことがある」というだけの二個人は、恐らく二度と遭遇の日を迎えぬだろう。だが俺は予期し、予知し、また期待していた。少女と再び巡り合う日が来ることを。――理屈は知らぬが、彼女が俺を「先輩」と呼んだあの瞬間から、そうなることが分かっていたのであるらしかった。
 そしてそれは現実となった。俺と彼女はしばしば顔を合わせることになり、いつしか少女が俺の居室に入り浸るようになり、時を重ねて想いを重ねて、恋人同士となるに至った。……その背後にある物語、狂った想いの交錯を、ここで具に思い返すことはすまい。いずれ回想する機会もあるだろう。
 実際のところ。
 何故彼女は、俺を先輩と呼んだのか。その答えは、今日に至るまでも分かっていない。だが別に、分かる必要はないのだろう。俺は彼女の先輩で、彼女は俺の後輩だ。それだけでいい。ただそれだけが、この世界における絶対的な真実なのだ。
 あれから一体、どれだけの時空が流れ去ったのだろうか。どれだけの世界を渡り歩いたのだろうか。今でも俺は、あの日のことをよく思い出す。思い出している。今も目の前にいる少女の寝顔を眺めつつ、ぼんやりと思い出すのだ。
 それは始まりの日であった。やがて熱と光を導いてゆく、創世神話の第一節。登場人物はたったの二人。とある男ととある少女のプロローグ。
 ――俺が少女の先輩となった日で、少女が俺の後輩となった日だ。
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