太陽光線を透かした遮光カーテンが、爽やかな風に揺れていた。それはまさしく、初夏色の風だった。どうしようもなく、夏の始まりの色を宿した風だったのだ。
 吹き込む微風に誘われ、俺は意識を遠くへ向けた。細く棚引き連れ立ち泳ぐ、帯状になった雲の果て――遥か彼方の蒼穹は、まるで季節そのものが染み渡っているかのように、薄く輝き透き通る。そして雲間を、また空そのものを突き刺すが如く、その存在を強烈に示す白い光球。それが齎す、余りにも、余りにも眩い光に眩暈を覚え、俺は思わず眼を閉じかける。だがその行動は、あくまで無益なものに過ぎない――眼球に入り込む陽光は、たとえ閉じた瞼の内奥にさえ、その実存を届かせる。眩む眼の内側で、何もかもを真っ白にする。初夏という名の色彩で、意識の全てを染め上げる。
 つまるところは、その日その時その瞬間――より詳細に言うのなら、五月末日、日曜の午前十時半――、世界の全てが初夏だった。そして初夏以外の何かでは、決してありはしなかったのだ。
 風。
 涼風が吹いている。
 薄青色の空から吹き込む風は、大地を渡り熱を導くその風は、いつもいつでも、心に何かを連れて来る。それは例えば、失われた世界の残響を。かつてあり、今はない、また本当に実在したかも分かりはしない、散らばり果てた記憶なるものの断片を。いつか見ていた、見ていた筈の幻想景色。頭の中にある風景。ざわざわと騒ぐ背の高い草。名前を知らない黄色い花。ガードレール沿いに何処かへ続く、アスファルトの路の先。最果てに積み上がる雲の峰――。
 ――ふいに、グラスの氷がからりと鳴った。涼やかなるその音響が、追憶に耳を傾けていた俺の認識を、現のものへと引き戻す。俺の棲家であるところの、ワンルームの居室へと。空の手前に窓があり、更にその手前にカーテンがある、現実の俺の部屋へと。
 ゆっくりと眼を閉じ、開き、想い出の景が完全に消え去ったのを確認しつつ、俺はグラスの炭酸水を一口呷る。それは弾ける気泡を伴って、喉を快く刺激しながら通り過ぎ、ぼんやりとしていた俺の頭脳を、漸くながらに覚醒させた。
 畳敷きの、六畳間。思えば随分、長い時間を共にした部屋。
 四枚の白い壁があり、窓があり、冷蔵庫があり、本棚があり、机があり、今は羽を休めている扇風機があり、殆ど点くことのないテレビがあり、その他諸々があり、――そして床の畳には、少女が寝転がっている。ラフな部屋着(所謂ところの、学校指定の体操服という奴だ)に身を包んだ、十台半ばの少女が、体を丸めて寝転んでいる。
 俺の視線に気が付いたのか(そんなことがあり得るのかどうかは、この場においてはさておいて)、彼女は「んむむ」と小さく唸り、顔だけをこちらに向けた。うなじの辺りで括った黒髪が、頭の動きに従い揺れる。
 どうやら少女は、淡く微睡んでいたらしい。いかにも眠そうに眼を擦り、数秒の後、ぱちくりと瞬きをして、それから、彼女を見遣る俺のことを呼んだのだ。
「……ん。先輩」
 と。

 先輩。そう、先輩だ。
 「先」「輩」。漢字二文字が成す言語表現が、単純にして明快に、一つの事実を提示している。――誰かが俺を、「先輩」であると呼ぶのなら、その誰かは、俺の「後輩」であるということになる。
 なるほど、然り。彼女は俺の、後輩なのだ。俺は彼女の、先輩なのだ。全く以て、簡単なことである。シンプルなことである。……俺は二十三歳であり、彼女は十五歳であり、俺は社会人であり、彼女は高校生であり、であるからして、そのような二人の関係性に、何ら「先輩・後輩」と定義可能な要素なるものが実在し得ないのであったとしても、紛うことなく、違うことなく、俺は彼女の先輩であるし、彼女は俺の後輩なのである。
 また言えば、そうしたような、理屈はなくとも厳然たる真実に、俺は長らく、救われていた。長い間、救済され続けてきたのであった。ああ、己が少女にとっての先輩であるという状況に、俺がどれだけ安らいでいたことか、癒されていたことか、――暗く湿った深淵に、一条の細い光が差し込むかのように、俺がどれだけ救われてきたことか。その心情を、恙ないまま、かつ余さずに表現する術などは、今の俺にはありはしない。今も昔も。あり得など、するものか。それは、その念は、俺だけが理解可能な、俺だけが感得可能な、俺だけの感懐である故に。――俺の、後輩。
 ……などと。
 聊かばかり、感傷的なモノローグを続け過ぎただろうか。であるからして、ここらでそろそろ、現の視界を脳内言語に乗せるとしよう。眼前に広がる光景を、意識という名のスクリーンに映写せしめることとしよう。
 俺の後輩であるところの少女は、ごろりと怠惰に転がって体勢を変え、俯せの姿勢を作る。呟きなのか、呻きなのか、判然としない音声を空気に放ちつつ、俺と目線を交錯させる。合致させる。……彼女の視線が、俺のまなこをしかと捉える。まるで揺らめく水面のような、その眼差しが。午前の白い太陽光線が、彼女の瞳を煌かせた。
「おはようございます、先輩」
 淡く微笑み、少女が言う。そのさまは、俺に小さな夏の花を連想させた。
「ああ、おはよう。……しかしまあ、この挨拶も、本日三度目に相成るわけか」
「あはは。ですねえ」
 俺の指摘を耳に入れ、はにかむ少女。……朝方の二度寝に加え、白昼(いや、白朝?)堂々なる微睡。実際ところ、彼女は今日という日の、それも半日に満たぬ期間において、みたびの覚醒を計上している。
「こう、何と言いますか……」
「うむ」
「初夏の日差しが、いけないのです。頭の中に差し込んできて、空気は気怠く暖かくて、ぼんやりとして。どうにもこうにも、活字が頭に入らなくて」
 手を伸ばし、閉じられた文庫本をとんとんと指で叩く。翻訳ものの、クライム・ミステリ。ハヤカワ文庫。揺れるカーテンをちらりと見遣り、彼女は続ける。
「そのくせ風は、ひどく心地良いと来たことですよ。……だからもう、何もかもが、なんだかどうでもよくなっちゃいまして」
「そして気付けば、意識を手放していたのだ、と」
「そーいうことです」
「なるほど。一理ある」
 実際のところ、一理ある。俺にしたって、ほんの数分前の時間においては、睡眠状態に陥りこそしなかったものの、何をするというでもなしに、何をするという気も起らずに、ただぼんやりと、空の果たてを遠望し続けていたのだから。空を――透明な、青空を。初夏なる空の、その色を。
「つまるところは、初夏の所為というわけだ」
「仰る通り、初夏のせいなのですよ」
「うむ。初夏が悪い」
「ええ。初夏が悪いのです」
 俯せの姿勢を崩さぬままに、くすくすと笑む少女を視界の内に収めつつ、俺は余りにも出し抜けに、悪人にされてしまった事象について想いを馳せる。白光のもと、世界の全てを覆い尽くしている、一つの季節の始まりである事象について。
 そしてやはり、変わらぬ結論に辿り着く。なるほど初夏が悪いのだ、と。

「それにしても、初夏ですよねえ」
「紛うことなく、初夏と言えるな」
 時間の経過は、それ即ち、世界の経過そのものに他ならない。時を重ね、世界を重ね、俺と少女は、今この瞬間に息をしている。――ここにあるのは、少女が微睡を抜け出してから、二十分が過ぎ去った後の世界だ。二十分。つまるところは、千二百秒。これだけのあわいがあれば、様々な事物が変化し得るし、また様々な事象が発生し得る。それはたとえば、少女が体を起こして洗顔に立ち、俺がアイスコーヒーを淹れ、そして二人で机を挟み、談話を交わし始めるといった類のことごとだ。
 七日間から構成される生活単位、その最果てたる日曜日。窓の外にある天空は、相も変わらず、青く白く遠く輝く。カーテンを攫う微かな風は、まるで木漏れ日の狭間を通り抜けて来たかのように、煌めきの残滓を宿す。夏の始まりの色をした朝の光は、緩やかに昼のそれへと転じつつある。――全てが、眩さを増してゆくのだ。
 二つのグラスは、もはや汗を掻き始めている。その内側で、溶けゆく氷のブロックが、濃褐色の液体を透き通らせる。俺は、少女は、積み重なった氷塊の山が崩壊する瞬間を、共に網膜に焼き付けた。
 ほうと、感嘆じみた溜息を吐く。そして彼女は、口を開いた。
「全く以て、ほんとにどうにも初夏なことです。初夏が初夏って初夏りつつ、初夏りまくりのしょかしょかです」
「しょかしょかとな」
「ええ、しょかしょかですよ。それはもう、初夏限定、しょかしょかチキンが売れちゃうほどに」
「夏だけに、唐辛子の辛さが効いたフライドチキンというわけか」
 首を傾げて、顎に伸ばした指を当て、少女は言った。
「んー……ふむむ、どうでしょう。どれかと言えば、レモンとか、トマトとかの酸味を強調したい感じですかね」
「なるほど」
 夏ではなくて、初夏なので――と、妙に説得力のある物言いに、俺は肯わざるを得なかった。初夏と夏のあわいには、言語化すること困難ながら、しかし決定的な断絶がある。世界を言語で掴み取り、感得を解釈へと昇華する営みにおいて、そうした差異は、決して見過ごし得ない事項と言える。
 くすっと笑って、少女はアイスコーヒーを口に含んだ。小さな一口。嚥下する喉の動きを、俺は半ば無意識に眺め遣る。
 眼を閉じ、開き、彼女は言った。
「それにしても。夏、ですか」
 夏。
 初夏ならぬ、夏。初夏を超越した先にある、夏という名の一つの時空。初夏とは違う、確定的に異なっている、一つの季節。今ここで、彼女が言及しようとしている「夏」なるものは、恐らくそうした前提を踏まえているのであろう。――俺は、応える。
「そうとも、夏だ。……初夏が過ぎれば、夏が訪う」
「ん……」
 季節の運行というものは、ただ単に、時が過ぎゆくという事実のみを示してなどいない。名状しがたき巨大なる塊が、緩慢かつも揺るぎなく、物理的に動き続けることを指し示す。その不可視の塊は、森羅万象、ありとあらゆる事物に作用して、四季折々、それぞれの色に染め上げるのだ。
 そしてまた、夏なるものは、言わば永遠を宿した季節。ありとあらゆる一瞬が、永劫の相へと転ずる季節。記憶と景色が混ざり合い、それらの全てが白い灼熱に焦がされる、果てぬ感傷の時空間と言って過言ではない。
「今年もまた、来ちゃうのですね。あの熱い熱い風が吹く、尽きることない郷愁をはらむ季節が」
 その夏が、迫り来ているというのである。
「いかにも」
 全く以て、いかにもだ。……とはいえ、しかし。
「ま、梅雨は挟むがな」
「……うぁ。梅雨、ですかー……」
 すっかり忘れていましたよ、と、彼女はげんなりとした感情を、盛大に声音に乗せた。そのげんなりは、波濤が連なりゆくかのように、俺の精神状態にも伝播する。
「毎年毎年、懲りずにやってくるものだ。かの淫雨は」
「ええ、本当に。……ながくて暗い、じめじめとした雨。まるで世界そのものに、灰色のふぃるたーが掛けられているような」
「またぞろ、上手く表現したな」
 まあ、俺個人の認識としては、梅雨には梅雨で、ある種の感慨や風情があると感得しているものではあるのだが。そしてまた、彼女にしても、それは同様であるのだろうが。
 だがしかし、ここにおいては、
「初夏の空気が、際限もなく高まってきていますのに。すぐそこにまで、夏のにおいが漂ってきていますのに。うめだかあめだか知りませんけど、邪魔されたくないことですよ」
 ――と、そういうことだ。
「……。であれば」
「んむ。であれば?」
 アイスコーヒーを呷り飲み干し、真っ直ぐに少女を見る。疑問が揺らめく、その瞳を覗き込む。
「鈍色の雲に閉ざされる近い未来を、いましばらく忘れる為に。――心に描く、夏に類する情景を、語り合うなどしてみるか」
 そして夏めいた薫香を、どうしようもない郷愁を、その感得を、ここに先取りすることとしよう。そのような提案を、少女へと投げ掛けると、
「お。いいですね」
 彼女の瞳が、きらりと輝く。光を湛えた水面のように、初夏の光輝を宿したように、確かに煌めいたのであった。

「じゃあ、先輩。人生の、そして夏のすたるじあの先輩として、ひとつ先鞭を付けちゃってくださいな」
「了承した」
 ……その、「夏のすたるじあの先輩」なる肩書きが、いかな内実を包含しているのかはともあれとして。
 心の裡に描き出す、夏なる景色。強いて捻り出すまでもなく、そうしたものは無数にある。無限にある。「夏」という単語を目にするだけで、風景は、光景は、風は、光は、幾らでも湧き出して来る。俺自身の過去として、脳内に蓄積されたもの。また或いは、創作物の中にしかないような、ゆめまぼろしなる虚構としとしてのもの。
 浮かび来た一間の映像を、俺は言葉に変換し、そして現実の空気に乗せた。
「誰とも知らぬ、とある少女を想定しよう。……青々とした稲葉の海が、鳴り渡る風に揺れている。ざわざわとそよぐ世界の中心に、彼女は佇んでいる。純白のワンピース。長い髪。麦藁帽子を片手で抑える。空の果てから吹く夏風に、言わば夏そのものに、舞い上げられぬようにと」
「わお」
 わお、と来たか。
「あー、あざといですね。いけないやつですよ。もはや犯罪すれすれです。『田舎の夏事案』です」
「田舎の夏事案とな」
「いえ。これはもう、大々的に問題にして、総力を挙げて取り組むべきことがらですね。『田舎の夏案件』です」
「田舎の夏案件とな」
 まるで息をするかのように、珍奇にしてかつ正鵠を射た、斬新この上なき言語表現を生み出す少女。ごく控えめに言って、感服せざるを得ず、尊敬の念を抱かざるを得ない。……いや、皮肉でなしに。
 こっかけんりょくも動きますよと、力を込めて少女は豪語した。ぎゅっと握られた彼女の拳が、その説を補強して余りある。
「あざとさという咎で、俺はお縄についてしまうのか」
「いえいえ。最終的には、無罪放免になりますから、ご安心くださいな」
「そうなのか?」
「だって、あざとさは正義ですから」
「なんと」
 あざとさは、正義。その力ある文言を、俺は胸中に刻み込む。
 少し考え込むようにした後で、彼女は言った。
「夏の田舎と言いますと、無人駅はいかがでしょうか。……ふいの夕立に襲われて、とにもかくにも、屋根のあるところに逃げ込んだ、みたいな」
「なるほど。木像の駅舎、古びたベンチ、やにわ冷涼なものとなる大気」
「雨音のほかには、なにも聞こえない場所。一人きりで、激しい雨に降り籠められて――」
「――駅構内という空間が、まるで世界から切り離されたかのように感得される、か」
「ええ。……こういうのも、あざといと言ってしまえば、そうなのかもですけれど」
「つまり、正義だな」
「あはは。正義です」
 そうした遣り取りを交わしながらも、俺の意識は、現実にはない小さな駅の只中にある。神さびた郵便ポスト。軋む引き戸。湿った空気。甘やかなる雨のにおい。……全く以て、郷愁という他はない。

「不思議ですよねえ。のすたるじあって」
 幾つかの、否、幾つもの言葉が飛び交い(「ハワイ要素がよく分からない、ぶるーはわいのかき氷」「膝で蹴り上げ二分割する、名称不定のあの氷菓はどうだろう」――「やっぱり、縁側は外せませんよね。風鈴の音に涼んだり、すいかの種を飛ばしたり」「戯画化された子豚を模した、蚊遣器具というのもあるか」――「エアコンのかびっぽいにおいすら、夏の情緒を助長して、余りあると思うのです」「扇風機派として、黙っているわけにはいかないな」――「汗びっしょりのからだに感じる、夕方の風の心地良いことと来ましたら」「夏の夕暮れ、か。……空は薄紫と橙色のグラデーションを描き出し、その日一日の熱と光を、どことも知らぬ世界の果てへと連れてゆく」――「村の神社の、夏祭り!」「ラムネ、蛸焼き、詐欺じみた射的遊技に、金魚掬い」)、やがていつしか、この六畳の居室の裡に、言語と想起と或いは妄想によって紡ぎ出された、夏色の幻想が満ち満ちた頃合いに。ついでに言えば、現実なる事象として、今や太陽の道行が、中天に達さんとする頃合いに。
 ぽつりと、彼女は言ったのだった。――不思議ですよねえ。のすたるじあって、と。
「不思議、か」
「ええ、不思議なのです。……郷愁というからには、記憶の中の何かによせる、懐かしさの一種であるはず」
 ですよね? と、目線で問うて来る彼女。俺は肯う。
「郷を愁う――字面通りだ。物理的なものであるかどうかはともあれとして、なるほど、故郷を懐古する心持には相違ない」
「ん。……でも、私は」
「ああ」
「夏の田舎で、暮らしていたことなんかないのですよ。縁側に寝そべっていた想い出もありませんし、ひょっとしたら風鈴なんて、実物を見たことさえないかも知れません。無人駅の駅舎にも、足を踏み入れた記憶はありません」
「……ふむ」
「なのに、そういうものに感じてやまないのすたるじーは、確かにここにあるのです。見たことがない、触れたことがない、知りもしない、――それでも懐かしいと思うのは、なんだか不思議じゃないですか?」
「……。そうだな、違いない」
 確かに、なるほど。考えてもみれば、不思議であると言う他はない。
 そして、更に加えて言うならば、
「或いは、実際に体験したところの、既知の事象にノスタルジーを覚えているのだとしても、それは同じことなのかも知れないな」
「む。つまり?」
「つまり。……人が何かを、郷愁を以て眺め遣るとき。前提として、そこで認識している事物は、全て虚構なのではなかろうか。たとえそれが、実在していた事柄によせた懐かしみであったのだとしても」
 一呼吸。二呼吸。ゆっくりと、彼女は思考を言葉に乗せた。
「……ええと。現実にあったそれとは別物として、『のすたるじーを覚えるよすが』として、頭の中に作り出したまぼろしに、私たちは郷愁を感じている、――ですか?」
「そういうことだ」
 何やら漠然として、上手い具合に纏まりを持った表現とならなかったのだが、どうやら伝わってくれたらしい。
「なるほどです。……あー、でも、先輩」
「ああ」
「じゃあ、どうして、そんな見たこともない現象に、見たことはあっても非実在のものとしての現象に、人は、――先輩は、私は、のすたるじーを感じてしまうのでしょう?」
「……。それは、分からん」
 郷愁とは。
 郷愁とは、何を機縁に立ち現れるものなのだろう。どこで生まれ、いかなる経路を辿った末に、この頭の中に訪れるものなのだろう。俄に考えを巡らせてみたところで、問いの答えは浮上しなどしなかった。――であれば、やはり、このように認める他はない。
「不思議なものだな。ノスタルジアとは」
「不思議ですよねえ。のすたるじあって」
 と。

 木漏れ日が成す輝く模様の裡で、ただ佇み涼んでいたい。草の匂いに咽せ返りそうになりながら、踏切の遮断機が上がるのを待っていたい。蝉時雨に打たれていたい。昼日に眩暈を覚えていたい。濃紺の空を見上げていたい。星の海に溺れていたい。――彼女は、俺は、夏への願いを言葉に乗せた。夏への扉を探し続けた。或いは、その扉を開く為の鍵を。
 言葉が流れ、対話が流れた。雲が流れ、光が流れ、時が流れた。
「……んー」
 会話が落ち着きを見せたところで、少女は、感嘆とも嘆息ともつかぬ吐息を零す。体の後ろで手を伸ばし、凝りを解すようにする。その様子を視界の内に捉えつつ、ふと、俺は時計に眼を遣った。
 時刻は、午前十一時四十分。翻って考えてもみれば、彼女と俺は、随分と長い時間を、夏の郷愁に関する談話に費やしていたようだった。長高くかつ遠白い、無尽の景色が行き交う内に、五月最後の、日曜日の午前中として括られる時空間は、今や過ぎ去り、永遠に消えてなくなろうとしているのであった。
 午前が終われば、午後となる。
 朝が終われば、昼となる。
 初夏と名の付く、一つの季節。夏には未だ至らねど、真昼と呼べる時間帯ともなれば、そこそこ気温は上がって来るものだ。朝方と比較して、世界の温度は、太陽が世界に齎す熱量は、それなりに嵩を増している。
 ……そして、また。
 概ねのところにおいて、概ねの人間は、昼が来たなら、食事を摂ることになっている。
「そろそろ、昼飯にするか」
「あー、ですねえ」
 時計を横目でちらりと見てから、彼女は言った。
「いつの間にやら、結構な時間が経っちゃっていたのですね。存在しない田舎の路を、心の中にある夏を、先輩と歩いているうちに」
「そうだな。……郷愁は、憧憬は、どうやら時を喰らうものらしい」
「あはは、さもありなん」
 まあ、それはともあれ。
「さて。何を食べるか」
 米は炊けていない。週末故に、冷蔵庫の備蓄も覚束ない。普段なら、ここで論議が起こるところだ。……ついでに言えば、五分か十分悩んだ末に、取り敢えず家を出て、果たして何を食べたものかと、なおも考え続けることになる。
 しかし、今日は勝手が違ったらしい。とっておきの切り札を捲ってみせるかのように、彼女はすぐさま、俺にこう言ったのだ。
「お素麺とか、どうですか」
「……決定だ」
 反論の余地がない。いや寧ろ、今この場この時において、素麺以外はあり得ない。

 とはいえ、今現在のこの家に、乾素麺の買い置きはない。ついでに言えば、麺つゆもない。であるからして、買い出しに出ねばならない。まさしくもう、行き当たりばったりという他ないが、俺と彼女の生活は、得てしてこういうものなのだった。
 すぐ着替えますから、先に出ていて頂けますか――とのことで、俺は一足先に居室を辞する。実際のところ、少女曰くの「すぐ」なる表現は、文字通りのものとなるだろう。彼女は、着替えに時間を要する人種ではない。
 ドアノブに手を掛ける。鉄扉と枠の隙間から、白光が差し込んで来る。初夏の光が。雲間から滲んだ初夏が。そして、俺は薫風を知覚した。薫香を嗅ぎ取った。遠い遠い、遥か遠い世界の果てから、それは俺のもとへと訪れたのであった。
 ドアが開き切る。長方形に切り取られた外界。青い、青い空。
 瞬間、眼が眩んだ。
 そして、そうだ――俺は、何かを思い出しそうだった。何かを思い出せそうだった。だが一間のあわいをも置かず、何かは宙へと散らばった。手を伸ばしても、届かぬ場所へ。何かが何であったのか、知れず仕舞いであるままに。
 ……構いはしない。いずれ分かる時が来るだろう。夏が来れば、きっと。
 眼を閉じる。眼を開く。瞬きをする。一歩踏み出す。部屋の外へと。日差しの下へと。扉を閉め、アパートの廊下から、俺は蒼天を仰ぎ見た。
 涼風は、光を熱を、初夏の空色を宿して渡る。肌を撫で、駆け去ってゆく風の、その行く先に想いを馳せる。見通そうとする。何処へ辿り着くのかと。如何な景色へと至り着くのかと。
 しかしそんなことをしなくとも、答えは分かり切っていた。
 ――涼風の先には、夏があるのだ。 
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