彼:
男性。二十三歳。社会人。フルネーム、岸辺明人(きしべあきひと)。
そして、彼女にとっての先輩。

後輩:
女性。十五歳。高校生。フルネーム、瀬戸内みなも(せとうちみなも)。
そして、彼にとっての後輩。


◆【20160430】
「『耳ざわりが良い』、という誤用がありますね」
「あるな。これについては、漢字に直せば理解し易い」
「たっちの『触る』ではなくて、『差し障り』とか『当たり障り』とかの『障る』ですよね」
「うむ。良い悪いではなしに、『耳障りだ』としか使えぬものだ。……などと言いつつ、この誤用に関しては、もはや誤用と呼び得ぬ気もするな」
「ありゃ、そうなのですか?」
「『手触り』や『舌触り』と同系統のものとして、『耳触り』という語が新造されたとでも言おうか」
「おお、なんと。……ひょっとして、それって最近の辞書には載ってたり?」
「載っていることもある。当然ながら、未だに誤用としている書籍もあるが」
「なるほど、勉強させて頂きました。いたずらに『誤用だ誤用だ』と吹聴して回るのも、ちょこっと危ないことかもですね」
「そういうことだ」
「……うーん。それにしても、耳触り。耳に触れると書いて、耳触り」
「どうした」
「先輩のお耳って、私、あんまりさわったことないかもです」
「……」
「みみざわり。ためしてみても、いいですか?」
「待て。その手は何だ。やや落ち着け。然るべき手順を踏――」
「さわさわ」
「……」
「ふにふに」
「……こそばゆい」


◆【20160504】
「三って、なんだか丁度いい数字なのですよ」
「丁度いい、か」
「ほら、先輩。たとえば『三秒ルール』だとか、『三分あれば出来る』だとか、『通常の三倍のスピード』だとか、『常人の三倍の脚力』だとか、いろいろ使われてたりしてますし」
「なるほど。二では迫力が足りないが、四では大袈裟に過ぎる。そのところ、三は程々のリアリティと、そして程々の外連味を両立し得る」
「おお。流石先輩。ひとの三割増しで理解がお早い」
「お褒めに与り光栄だ」
「であるからして、そういうわけで。……ね、先輩」
「うむ」
「今日の私は、昨日の三倍先輩のことが好きなのです。明日は更に三倍好きになっているかも」
「然なることを言われると、常の三倍照れてしまうな」


◆【20160509】
「うう、先輩。ままならないことですよー……」
「ふむ」
「やりたいのに、やれそうなのに。でも叶わない。届かない。理想の未来を思い描いて、何度も何度も試し続けては失敗し、苦汁を舐めて、それでも諦め切れずにまた負ける。……こんなこと、もうやめればいいだけなのに」
「……どうした? 例ならず、何か深刻な問題を抱えているようではあるが」
「……ん。先輩……」
「君が話したくないというのなら、それでも俺は構いはしない。だが、出来れば俺も共有したい。君の困苦を分かち持ちたい。……どうだろうか」
「……はい。大丈夫です。もしよかったら、どうか聞いて下さい」
「うむ」
「ねえ、先輩。……チキンラーメンの、卵ポケット」
「……チキンラーメンの、卵ポケット?」
「乗せても。卵が。どうしても、パッケージみたいな煮え具合にならないのですよ……」
「……ああ……」
「器を温めてみても。お湯をぼこぼこ湧くまで沸騰してみても。だめなんです。どうしても。どうしても」
「……。ちなみに聞いておくのだが、本来の器に直接湯を注ぐのではなく、乾麺と卵を鍋で茹でるというソリューションは?」
「な、なんてこと言うんですか先輩。それは敗北です。人間の理性の敗北ですよ!」
「すまん。野暮な口出しだった」


◆【20160512】
「『年上の女房は、金のわらじを履いてでも探せ』……という言葉がありますけれど」
「ああ。あるな」
「これって一体、どういう意味があるのでしょうか。お姉さん女房はともあれとして、どうして金のわらじなんかを。……ひょっとして、婿入り道具?」
「……むっ、婿入り……っ」
「あ、先輩がツボった」
「す、すまん。……本来の意味合いとしては、純金ではなく、金属のことであったらしいな」
「ふむふむ。つまり、鉄製のわらじ」
「ああ。身勝手な物言いではあると感じるが、妻とするなら年長の者がよい。なればこそ、擦り減ることなき鉄の履物を用いてでも、ひたすらに歩き回って探すべきだと」
「ああ、なるほど。金のわらじは、ずっと歩き続けることの比喩なのですか。時代の違いが偲ばれることですね」
「そうだな」
「でもでも先輩。どっちみち、私には関係のない話かもです」
「ふむ。それは、君が女性であるからか?」
「いえ、そういうことではなくて。……だって、先輩。私は、別に擦り減らない靴を使わなくても、かけがえのない先輩に巡り合えたのですから」
「……そうか」
「……えへへ」


◆【20160513】
「ラップで決めるところとか、ジョークや四コマ漫画の最後とか、つまるところに『落ち』というやつ。英語では、『パンチライン』というそうですが」
「うむ」
「先輩、これの語源ってご存知ですか?」
「知っている、という程でもないが。……パンチは文字通り『拳撃』の意もあるが、ここでは『パンチのある話』のパンチとすればよかろうか。そしてラインは『劇の台詞』や『短いフレーズ』。これを組み合わせると」
「おお、なるほど。『刺激的な効力のある台詞、フレーズ』。まさしく落ちのことですね」
「恐らくだが、そういうことなのだと思う」
「ふむふむ。また一つ賢くなりました」
「ならば幸いだ」
「もし先輩に教えて頂かなかったら、今回の落ちとして……」
「あ、ああ」
「その、下着を見せるべきなのかなあ、とか」
「落ち着け。……いや、落ちを付けろということではなくて」


◆【20160513-2】
「眠い時。眠りたい時。眠らなくてはならない時。同じものであるべきそれこれは、その実どれも違ったものですけれど」
「うむ」
「困ったことに、あんまり重なってくれないんですよね」
「そうだな。また言うのなら、掠りさえせぬ、袖さえ擦らぬ場合が殆どだ」
「ええ。……中途半端な時間に眠くなる。起きた途端に二度寝したい。休まなくてはならないのに眼が冴えている。やっと眠れてもすぐに目覚めて、そのあと朝まで眼を開けたまま」
「どれもこれも、身に覚えのあることばかりだな」
「そして、先輩。だからこそ」
「だからこそ?」
「奇跡が起きて、三つ全部がぴったりと重なる時が来たのなら。――眠くて、眠りたくて、眠らなくてはならないたいみんぐが訪れたなら」
「ああ」
「そうなったなら、きっとすぐに寝ちゃうべきなのでしょうね」
「違いない。そしてまた、君が何を言いたいのかが分かった。……早速、布団を敷くとしよう」
「……ん。ありがとうございます、先輩」


◆【20160515】
「その筋の創作物にはしばしば便利アイテムとして登場するのにも関わらず、実在の証が現実世界では認められていないゆめのまぼろし、その名も『媚薬』。……つまるところは、服用するといやらしい気分になっちゃうおくすりのことですね」
「初っ端からの長々とした解説に、畏敬の念を抑え切れない。……で、それがどうした?」
「まあ、その、ええと。……インターネット上にはいろいろと、自称媚薬のレシピが公開されていたりするわけじゃないですか。またそれも、スーパーで当たり前に手に入るような材料を使ったものが」
「……正直知らんが、なるほど想定され得る事態ではあるのだろうな」
「だからですね、試してみちゃったわけですよ。媚薬を。自分で。いつか先輩に飲んで頂こうと思って」
「先輩としての温情で、末尾は聞こえなかったことにしてやろう。して、結果は?」
「はい。……にんじんとか、レモン果汁とか、牛乳とかを使って、鍋で温めたりしてですね」
「あ、ああ」
「……おいしくなかったですねえ、ええ」
「……。そりゃそうだ」
「どうにも気分が悪くなってしまって、えっちなことを考えるどころじゃなかったですよ」
「御愁傷様ではあるのだが、敢えて言いたい、言わせて欲しい。それは身から出た錆であると」
「あはは、反省してます。……ちなみにですけど、先輩」
「うむ」
「七割ぐらいは冗談なので、そこはご安心なさって大丈夫ですよ?」
「寧ろ残る三割にこそ、恐怖を抱くべきではないかと思うがな」


◆【20160517】
「たこ焼き。スーパーのお惣菜コーナーで、結構売られてますけれど」
「ああ、あるな。お好み焼きと並んでいるのをよく見ることだ」
「そのところ、つい最近、あのお店では七個になっちゃったじゃないですか。お値段据え置き、一個減り、事実上の値上げです」
「あの店舗か。……透明のフードパックに、二列配置で七個入り。値上げ自体も残念ではあるのだが、見た目としても、何処かすっきりとしない雰囲気を感じたことだ」
「ええ。何の根拠もありませんけど、たこ焼きは、偶数、それも八個で詰められているのがいいなあと」
「そうだな。蛸の足が八本である、という無意識的な前提もあるかも知れん」
「あはは、なるほど。盲点でした」
「……して、話題提起から推測するに。もしや、別のスーパーマーケットで八個入りを見出したのか?」
「おお、鋭い。仰る通り、見付けちゃったりしちゃったのです。また言うと、ずいぶん良心的な価格のものを」
「ふむ。魅力的だな」
「ですですよ。そりゃもうわくわくですし、たこ焼きみたいにほくほくです。……買ってきて、レンジでチンして、いざ一つ目をぱくりとですね」
「それはまた、肖りたい至福だな」
「……でもですね。何かどこかがおかしいのです」
「何か、どこか?」
「具体的に言うのなら、何だか妙に柔らかい。あるべきものの感触がない。空気を食べている気さえしました」
「……ああ。そういうことか」
「たぶん、先輩が予想されている通りです。……たこが。たこ焼きの命が。小指の爪の先より小さい、いっそひき肉みたいな粒として、端っこにぽつねんとあるだけでして。二つ目を食べた時、やっと存在に気付いたぐらいでしたよ」
「まあ……何と言うか、御愁傷様だった。実際それは、『たこ焼き』と定義可能か疑わしいな」
「はい。あれはたこ焼きじゃないです。もはや『焼き』です。ただの『焼き』ですっ!」
「……。焼き」
「ええ、焼き」
「哲学的だ……」


◆【20160517-2】
「……あ。そういえば、先輩」
「どうした?」
「いえ、その。たこ焼きと、いか焼きと」
「どちらも夏祭りの目玉だな。して?」
「こう、改めて考えてもみれば。……たこ焼きは小麦粉にたこを入れて焼いたものなのに、いか焼きはいかをそのまま焼いたものなのですね、と」
「い、言われてみれば」
「ふむむ。哲学的です」
「哲学的……か?」


◆【20160519】
「つい先程のことなのだがな」
「ん。先輩?」
「俺は宵闇の帰り道を歩いていた。空は闇に沈み始めた水色と、最果ての薄紫のあいだに揺れていた。太陽そのものは既に山の向こうに隠れていたが、残照が雲を薄紅色に染めていた」
「おお。風さえ青と紫の色を宿しているような、なんだかそんな感傷的な。とっても素敵に情緒的です」
「うむ。薄闇に色付いた風が吹いてきていた。……湿った微風は、ふいに濃い草のにおいを連れてきた。濡れた夏草の如き、生命に満ちた薫香を。どこに草原などあったのか、見渡せども杳と知れないのにも関わらず」
「あー、いいですねえ。季節の香り、夏の始まりだけに身に染み渡りゆくあの感覚。羨ましいことですよ」
「こちらとしても、お裾分けしたい心持なのだがな。……ともあれ、だ」
「ええ。ともあれ」
「一瞬一瞬、瞬きのあわいに消えてゆく感得を、欠片でさえも逃したくない。余すことなく感じ取りたい。そうした念を、より強く抱いたことだ」
「ええ……」
「当然ながら、こうして君と共にある一間もな。君と過ごす時間を、空間を、欠片でさえも取りこぼさずに、具に感じていたいものだと思う」
「ん。……えっと、先輩」
「……どうした?」
「仰ることは分かりますし、とても嬉しいのですけれど。……その、においのお話をなさった後に、そういう言葉を聞きますと、何だかこう、何とも言えない気恥ずかしさが」
「……すまん。決してそういうことではないのだが」


◆【20160520】
「コンビニで、買い物をしていたのだが」
「はい」
「棚を整理している店員が、何か、ふわふわしたうさぎの尻尾を生やしているように見えてな。これは! ……と、何やら緊張してしまったのだが」
「……あー。先輩」
「よくよく考えてみれば、はたきを尻ポケットに差しているだけだったのだな。……見間違えというのはあるものだと、改めて思い知らされた一幕だった」
「……。あのね、先輩」
「ああ」
「こういうこと、あんまりお伝えしたくはないのですけど。……先輩が、それを仰るのは二回目です」
「……なんと」


◆【20160520-2】
「フォークソングとか、あんまり趣味でもありませんけど。偶に聞くと、何だかいいなあと思うものです」
「フォークか。確か君は、ディランは好んでいたと思うが」
「あはは、あの人は別枠で。……スチールギターのリズムとか、どれを聞いてもそんなに変わらない感じとか、落ち着くものがありますね」
「その道の者には怒られそうな言い様ではあるが、言わんとすることは分かる。『カントリー・ローズ』など、何だかんだで郷愁の念を揺さぶられるものを覚える」
「あ、いいですね。ジョン・デンヴァーの『テイク・ミー・ホーム、カントリー・ローズ』。そよ風が誘惑する系のポップなカバーも有名ですが、私はやっぱりこっちかなあ」
「著名なカバーといえば、日本のアニメ映――」
「――いいですよねー、ジョン・デンヴァーの『テイク・ミー・ホーム、カントリー・ローズ』!」
「すまん。俺が悪かった」


◆【20160522】
「先輩、こんにちはー……って、わ。扇風機」
「うむ。諸々の掃除のついでに出した。気付いてみれば、もはや汗だくになっていたからな」
「あはは、お疲れ様です。実際、もうあってもおかしくない季節ですよね、扇風機」
「うむ。最高気温は三十度弱にさえ至り、加えて連日の好天続き」
「これぞまさしく、夏の入り口。つまり実質的には夏ですね」
「そうだな。夏だ」
「……それにしても。先輩」
「どうした?」
「こうして扇風機がお出ましになったのですから、恒例のあれをやっておかないと」
「恒例、とは。まさかよもやの……宇宙人の物真似を……?」
「ち、違いますよ! 色んな意味でびっくりしちゃいましたよ、もう。……ね、先輩」
「う、うむ」
「鍋、ですよ?」
「……なるほど。鍋か」
「ええ、鍋です、鍋も鍋。鍋以外の何かではなく、鍋的に鍋しちゃうのです。鍋以外の何かではないのです!」
「いいな。いい。素晴らしい。扇風機を出したが故に、暑いのにも関わらず、敢えて湯気立つ鍋料理を食すと。まさしく夏に相応しい行いだ。夏は鍋だ」
「ですですよっ。夏は鍋です……!」


◆【20160524】
「にゃ、にゃっ……!?」
「何やら物凄い声が出たな。どうした?」
「あ、いえ、先輩。これ、さっきコンビニで買ったパンなのですが」
「うむ。スクランブルエッグとハムカツの、所謂コッペパンサンドだな」
「このはむかつ部分がですね、いかにもこうあの、あれ的な。……はしたないかもで申し訳ないのですけど、先輩、一口食べてみて頂けますか?」
「いや、君が構わないなら頂こう」
「で、では」
「失礼する。……む、……これは!?」
「先輩も、お気付きになられましたか……?」
「あ、ああ。……これではまるで、あれではないか。あの三十円の、駄菓子屋で販売されていがちな――」
「――そうです、あれですっ。『アイドルかつ』ですっ!」
「そうだ。あれだ。相違ない。何が『アイドル』なのかがまるで以て見当付かぬ、『アイドルかつ』の味わいだ……!」
「いやあ、びっくりしちゃいましたよ。ちーぷなカレー風のソース味といい、ぐにりとした湿っぽい食感といい、あの駄菓子をそのまま分厚くしたなにかですよ、これはもう」
「現代都市の裏に潜み隠れる、風吹くようなノスタルジアの発露だな。……俺には見える。見えるぞ。古ぼけた狭い店内。『どんぐりガム』のプラスチック壺、各種並んだ『ガブリチュウ』。カウンターには甘辛風味のするめ串。そういう昔懐かしい光景が」
「ええ、見えます。私にも見えちゃいます。筆箱みたいなお財布の小銭をかき集めて、どうにかこうにか数十円をやりくりする。店主のおばあちゃんが無理な値引きに応じてくれる。そんなセピア色の記憶映像……!」


◆【20160524-2】
「……先輩」
「うむ」
「駄菓子の『かつ』系お菓子。いまスマートフォンで調べてみたら、驚きの事実が発覚しちゃいましたよ」
「拝聴しよう」
「こほん。……あれ、原材料は、鱈のすり身みたいです」
「……そうだったのか」
「ぎょにく……しろみざかな……」
「頷ける話ではある。白身魚というものは、魚肉としては安価であって、しかも一応満足に足る噛み心地を宿した食材だ。駄菓子に用いられるのは道理であろう」
「でも、まさか。はるかな昔、幼少の砌、これでお肉を食べられるんだ、とほくほくしながら手を出していたあの『かつ』が、めるるーさの同類だったなんて……」
「……ああ……」
「……先輩。強く生きていきましょう」
「うむ。強く生きよう」


◆【20160526】
『……ということは、先輩、今日はお休みだったのですね』
「急な降雨、また現場の都合などが重なってな。すまん、君に連絡すべきかと思ったのだが……」
『いえいえ。先輩も、お一人で身体を休めたいときはあるでしょうし。それにそもそも、いつもご迷惑をおかけしちゃったりしてますし』
「迷惑などとは、とんでもないが」
『まあまあ、それはともあれのこととして。……折角なので、聞きたいです。先輩、今日は何をして過ごしておられたのですか?』
「い、いや。特に語るに足る事柄は」
『おおっ。濁しましたね? それはつまり、先輩がなにかしておられたという証拠です』
「……」
『う、……あー、ごめんなさい。無理に聞き出す心算はなかったのですけれど』
「……いや。別に隠し立てすることでもない。まあ、酒を飲んでいたのさ」
『ふむふむ、おさけ』
「路上でな」
『路上っ!?』
「見知らぬ土地に列車で赴き、駅のキオスクで缶のビールを購入し、折り畳み傘を差し」
『わ、わあ……』
「酩酊し、雨煙に霞む景色を遊歩しながら、眼に付いた総菜屋でコロッケを買い、食べ歩き……」
『……お、おお。それはまた、お楽しみだったようで幸いでし……た……?』
「このような先輩ですまない……本当にすまない……」
『い、いえいえ……』


◆【20160529】
「憧れといいますか、楽しみだなあといいますか……」
「ふむ」
「お酒が飲める齢になったら、やってみたいことがありまして」
「聞かせて貰おう」
「では、こほん。……仕事か学校かは分かりませんが、お休み前の金曜の夜。スーパーマーケットかコンビニで、ビールか発泡酒を買って帰るのです。そうですねえ、二缶ぐらい」
「ありがちかつも、理想的な景色だな。して?」
「それから私は、ごはんを作って家事をこなして。音楽を聞きながら本を読んで、ちょこっとインターネットを歩いてみたり。そんなこんなで、気付けば深夜になっているのです」
「一人暮らしの設定か。何かと忙しくはなるであろうが、君なら大丈夫だろう」
「あはは、ありがとうございます。……それでですね、先輩」
「うむ」
「お風呂も上がって、寝巻に着替えて、電気も消して。さて寝ましょうかというときに、やっとビールの出番です」
「ナイトキャップか。なるほど、健全だな」
「け、健全かどうかは分かりませんが。……お酒を飲むのに、あてがないのも寂しいなあということで」
「そうだな」
「さあ、ここで、録りためていたロボットアニメのお出ましです」
「ロボットアニメ……」
「いいのがなければ、女の子たちがきゃいのきゃいのするアニメでもいいですけれど。……深夜二時、真っ暗な部屋、ぼんやりしながらビールとアニメ。ええ、憧れです、理想です」
「わ、分からなくはない……か……?」


◆【20160530】
「分かっている。理解している」
「先輩?」
「自分が勝手に自分を追い込んでいるだけだ。自分で自分を自分の定義で枷に嵌め、人知れぬ沼に自らの身を沈めているのみに過ぎない。誰かに迷惑をかけている、誰かに呪われ厭われている、そんなものは妄想だ。思い込みだ。そのように思い込むこと自体が失礼であり、不誠実であり、過りだ」
「……ん」
「分かっている。理解している。しているんだ」
「ね。先輩」
「あ、ああ」
「手、出して」
「……」
「ぎゅ、と。……ねえ、先輩、私はここにいます。先輩のそばにいます。何があったか分かりませんし、無理に聞こうとも思いません。先輩の悩みは先輩だけのものだから、変に理解した風になりたくもありません。……でも、私は先輩の隣にいます。何があっても。何が起こっても」
「……」
「たとえ世界が滅んでも、私だけは、先輩の手を握りますから。そのことを、忘れないでいてください」
「……っ、……、ああ」
「ええ」
「ありがとう……」
「あはは。どういたしまして」


◆【20160531】
「いーえーでぃーじーびーいー」
「……!」
「いー、えー、でぃー、じー、びー、いー」
「……やめろ。やめてくれ。俺を殺さないでくれ。Fコードが押さえられずにギター演奏を擲った、嘗ての俺を刺し殺すのはやめてくれ」
「むふふ。先輩も、バンドに憧れちゃう時期があったのですねえ……」
「……」
「文化祭のステージで、一花咲かせてみたかったりですとか?」
「やめるんだ……やめるんだ……」
「屋上で昼寝しているときに、テロリストが攻め込んできたりですとか?」
「よせ。よすんだ。今日の君は邪悪だぞ」


◆【20160601】
「のうみそ、なのかも知れません」
「脳味噌?」
「水槽にぷかぷか浮かぶ、電極を突き刺された脳味噌でしかないのかも知れません」
「ブレイン・イン・ア・ヴァット、か。……我々が観察している風景は、我々が生存している現実は、コンピュータにより送り込まれた電気信号が齎す幻に過ぎないのかも知れぬ、という思考実験。論理的考察に基く限り、俺達にそれを否定する術はない」
「世界は一瞬前に創られた、というお話もありましたっけ」
「世界五分前仮説だな。このような名はしているが、五分前に限られることではない。かの議論が示すのは、我々が、存在しない『過去』、即ち『記憶』という情報を植え付けられているのかも知れない、ということだ。これについても、俺達には否定する方法はない」
「ええ。否定出来ない。できないのです。私達の辿った歴史が、私達の生きる世界が、ぜんぶまぼろしかも知れないということは。……それから、『他人』というものの実在も」
「我思う、故に我あり。これにより、自己意識のみは確実なものとして証明される。……だが逆に言うのなら、『自分以外の意識の存在』は、証明不能ということになる。俺の意識は確かにある。だが君の意識はあるのかどうか疑わしい。そしてまた、論理的に君の意識の存在を認めることは不可能だ」
「私にとっては、逆ですね。私の意識は確かにありますけれど、先輩の意識はないかも知れない、ということになります」
「うむ」
「……。でも」
「でも?」
「それでも、ですよ」
「ああ」
「ねえ、先輩。それでも私は、信じたいのです。いえ、信じるのです。強く強く信じるのです。他の誰が存在していないのだとしても、先輩だけは、ただ先輩だけは、確かに先輩としてあるのだと。現実に生きておられるのだと。理屈なんて知りません。仮説なんて知りません。思考実験なんて知りません。ただただそうであって欲しいと、心から願うのですよ」
「……」
「だって、私は先輩のことが好きだから。好きで好きで、大好きだから。――だいすきなのです、先輩」
「……それもまた、一つの回答と呼べるだろうな。思考実験が付き付けてくる残酷な問いに対する、一つの強き回答となるのだろうな」
「はい。誰にも認められなくたって、誰かに否定されたって、絶対に揺るぎはしない、これが私の答えです」
「そうか」
「そうです」
「そうなのだな」
「そうなのですよ」
「ああ……」
「……先輩」
「ああ」
「先輩。先輩」
「ああ。……ならば俺も、答えよう。俺はここにいる。俺は確実にここにいる。君の眼の前にいる。君の先輩として、今この場所に存在している。――君は俺の後輩で、俺は君の先輩だ。他の何が不確かなのだとしても、その真実だけは絶対だ」
「……先輩は、私の先輩。私は、先輩の後輩。たとえそれ以外の何もかもが嘘であっても、私と先輩の関係は、先輩と私の関係は、それだけは、ただそれだけは、――ここにあるふたりきりの世界だけは、虚構なんかじゃありはしない」
「そういうことだ」
「だったら、先輩」
「うむ」
「先輩。これからも、私の先輩でいてください」
「言われるまでもないことだ。君の方こそ、どうか俺の後輩でいて欲しい。頼む。願う。希う」
「あははっ。……わかりましたっ。不肖、後輩。全力で先輩の後輩を全うしますっ!」
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