彼:
後輩にとっての、先輩である。
ただこの真実だけは、たとえ世界が滅んでも、絶対に変わりはしない。

後輩:
彼にとっての、後輩でる。
ただこの真実だけは、たとえ世界が滅んでも、絶対に変わりはしない。


◆【20150714】
「朝、薄暗い部屋で目を覚ます。眼を開けて、タオルケットをはねのける。――すると、蝉の鳴き声が聞こえているのに気付くのです」
「ああ」
「夏だから、蝉が鳴いている。……当たり前といえばそうかもですが、これって結構、すごいことだと思うのですよ」
「そうだな。……夏なる事象、一つの季節。その一端を、この身と心に感得するということ。疑いの余地もなく、それは奇跡と呼び得るだろう」
「……ん。きせき」
「ごくありふれていて、まるで特殊な事柄とは呼び得ない。――しかしそれでも、今この瞬間に立つ己が、確かに夏の只中にあるということを」
「えっと。……それを奇跡だと思うのは、そんなふうに感じることは、きっとまちがいなんかじゃない」
「うむ。……つまり、夏なのさ」
「夏なのですね」
「夏だから、仕方ない」
「あはは。仕方ないのですね、夏だから」


◆【20150715】
「目が覚めた布団の中は、そりゃもう蒸し暑いわけなのです」
「そうだな。夏である故」
「気温が暑いというのとも、日差しが熱いというのとも、なんだか違うような気がする感じ。……皮膚の下から、熱が、夏が、にじみだしてくるような」
「うむ」
「くびもとに手をやると、じっとり湿った感触が。二の腕、ふともも、膝の裏、――きっともはや、全身に。汗を掻いていちゃっているのだなあと、気付いてしまうわけですよ」
「何度と言わず、覚えがある。夏の寝覚めに特有の、その感得は」
「ん。……厚いカーテンを以てして、閉ざされた部屋。鎖された世界。薄暗くてせまい場所。――そして、隙間から差し込んでくる光の筋に、浮かぶ埃が煌いて」
「……」
「なんだかいいなあ、こういうのって、と。……蒸し暑さも、寝汗に濡れた感覚も、なぜだか気持ちいいような気さえして」
「……なるほど」
「って、あはは。ちょっと、へんたいさんっぽいですかね?」
「いや、なに。発言が変態染みてしまうのも、致し方ないというものだろう」
「ん、む。それは、夏だから?」
「ああ。夏だから」
「夏だから、仕方ないというわけですね」
「うむ。仕方ないのさ、夏だから」


◆【20150716】
「ざあざあと降り募る雨。重い雨脚。――世界の何もかもを閉ざす、絶えなくはげしい雨の声」
「ああ」
「こうして、耳を澄まして聴いてもみれば。雨は雨でも、色々な種類の音が、複雑に折り重なっているものなのですね」
「そうだな。……アスファルトを叩く音」
「ばしゃばしゃと、水溜りで跳ねる音」
「雨どいを流れゆく音」
「ばたばたと、家々の軒に落ちる音」
「それらの全てが溶け合って、雨音という名の響きを作る――か」
「何故だか、どこか懐かしいような。何故だか、どこかもの悲しいような。……それと何故だか、どこか落ち着くものがあるような」
「然り。まさしく。然もありなん」
「ん。……ね、先輩」
「どうした?」
「今晩は、泊まっていっても構いませんか?」
「ああ。このまま二人で、間断なき今宵の雨に、降り籠められているとしよう」


◆【20150717】
「あ……先輩、せんぱいっ!」
「ああ。ただいま」
「おかえりなさい……っ」
「おっと。……どうした?」
「だって、だって。なにか台風がなんとかで、運転中止や見合わせだとか、さもなくば区間運休、そんなこんなのあれやそれやが――」
「落ち着け。……無事に帰着し、俺は今ここにいる。君の眼前にいる。君の腕の中にいる」
「――……、ん……」
「まあ、何だ。……紆余曲折は経たと言えども、今日は三連休の開始日であり、そして君にとっては、夏休みの第一日目と来た」
「……」
「折角だ。謳歌するとしようじゃないか」
「……っ、……あの、先輩」
「ああ」
「こう、上手く言えないのですけれど。――ありがとうございます、ここにいてくれて。ここに生きてくれていて。私の先輩でいてくれて」
「……。うむ」


◆【20150718】
「先輩は、その。やりたいこと、とか」
「ふむ」
「折角の、さんれんきゅーというやつですし。それに先輩、常日頃から、あまり希望を仰られないですから」
「……そうだろうか?」
「実のところは、そうなのですよ。……先輩は、私の意見、私のしたいことに、よく同調なさいますけど」
「……」
「ご自身が、なさりたいこと。してみたいこと。あるいは、ぶちまけてしまいたい衝動。……そういうものを、あまり口に出しませんから」
「……ふむ」
「であるからこそ、今がその時。なう・いず・ざ・たいむ」
「あ、ああ」
「さあさあ、全身全霊、最短距離で真っ直ぐに、よくぼーを宣言しちゃってくださいな」
「欲望を……」
「不肖、後輩。先輩が心に抱える欲求が、昏い望みが、たとえどんなたぐいであったとしても、――滅私奉公、粉骨砕身、受け止めちゃう覚悟ですから!」
「……では」
「は、はい……っ」
「……朝目覚め、寝惚け眼を擦る間もなく、そのまま飲酒を開始する。なるべく強い蒸留酒を、十ショットほど叩き込む」
「え、と……」
「空腹状態、胃中で暴れ熱を持つアルコール物質を、あくまで快いものとして感得する。嘔吐寸前にして、安楽の絶頂に至り着く。――そしてそのまま、甘く穢れた眠りに落ちる。二度と、もう二度と、目覚めぬことを祈りつつ。……これが、俺の欲望だ」
「……あ、……せ、先輩……」
「と。――ま、冗談だがな」
「……、っ――」


◆【20150719】
「食したいもの。赴きたい場所。為したいことごと。……さして無いのさ、さなる類は」
「ん、んー……ふむむ」
「寧ろ、決め切れない、煮え切らないと言うべきか」
「えっと。……先輩は、いわゆるところのゆーじゅーふだん?」
「そうとも呼べる。否、そうと肯う他はない」
「うわ。正面切って、認めちゃいなさりましたね」
「真実だ。……そしてまた、だからこそ」
「だからこそ?」
「他の誰かに、――君に、何かを提案して欲しいと望む。どこかへ連れて行って欲しいと願う。手を引いて欲しいと希う」
「ん、む……」
「概ねのところにおいて、何を為しても楽しいものだ。いずこへ行っても楽しいものだ。君が、俺を引っ張っていてくれるのならば」
「むう。卑怯ですよ、そういうたぐいの言い方は」
「いかにも。君の先輩である人は、付和雷同にして陋劣だ」
「ん。……でも、先輩の後輩である人は、そういうところも大好きだったりしちゃったり」
「……」
「……あはは」


◆【20150720】
「目が覚めて、からだを起こして。……まだまだ、空が暗いのに気付いたりして」
「蒸し暑きことに、寝苦しきことに起こされた、と」
「ええ。これもまた、夏の情緒の一つかもです」
「そうかもな。……水を飲み、扇風機を点け直し、そして夏物布団に潜り込む」
「まだ二時間は眠れるのかなとか、アラームちゃんと掛かってるかなとか、ぼんやりと考えつつも、意識はすぐにとろとろと……」
「素敵なことだな」
「ええ。素敵なことです」
「思うに、夏の夜明けの二度寝と言うは、冬のそれにも負けず劣らず、ある種の心地良さを齎すものだ」
「ですです。全く以て、その通り。……それと、それから」
「ああ」
「なぜかなぜだか、そういうときに見る夢は、なにやら妙に楽しかったりして」
「楽しい、か。……それは、如何なる方向性で?」
「ん……、と。えっと、つまり」
「……」
「……あはは。ちょこっとばかり、ひとには言えない方向性で?」
「……。なるほど」


◆【20150721】
「ひゅー、ひゅー」
「せ、先輩。それは、もしや」
「ひゅー」
「なんともいかにも懐かしい、いわゆるところの笛ラムネ……!」
「ひゅるー、ひゅるー」
「あ、えっと……ひとつぶ、私にも? ……んっと、ありがとうございます」
「ひゅるるー、ぴひゅー」
「ん……、と」
「ひゅるるるる」
「……ん、む。……ひゅー」
「ひゅー、ぴひゅー」
「ひゅー、ひゅー」
「ひゅるー」
「ひゅるるー」


◆【20150725】
「むむむ……きゅーじつしゅっきん」
「遅くとも、午後五時頃には帰るだろうさ」
「うー。私の先輩が、職場にどなどなされてゆく……」
「押し込められるのは、荷馬車ではなく電車であるが。……ま、行ってくるとしよう」
「あ……、はい。いってらっしゃいませ、先輩」
「うむ」
「晩ごはんには、すきやきを準備して待っていますから」
「なんと。すき焼きか」
「そう。どなどなだけに、ここで敢えての牛肉料理……!」
「……何やらにして、不穏なるものは感じるが。ともあれ、夕餉を楽しみにしていよう」


◆【20150726】
「ねえ、先輩」
「……」
「先輩。まさか、これで終わりじゃ、ないですよね?」
「……」
「こんなのじゃあ、私、満足なんかできないですよ……?」
「……」
「こころもからだも、熟れた果実みたいに昂っちゃっているのです。……先輩は、私をこんなふうにしたままで、おやすみだなんて、まさか仰られたりしないですよね」
「……」
「だから、先輩。……ねえ、先輩。――まだ、できますよね?」
「……君が。そう、望むのならば」
「ふふ、むふふ、むふふふふ……それじゃあ、もうひとロール、いっちゃうとしましょうかっ」
「まさか、よもや。梱包材のぷちぷち潰しが、人をこうも狂わせるとは」
「ああ……ひとつぶ指で潰すたび、全身を貫き走る哲学思索。思うにぷちぷちシートとは、極小にして極大なる小宇宙の実存が、永遠に重なり連なる無限の縮図……!」
「まあ、何だ。幸せそうで、何よりだ」
「……」
「……」
「……あの。先輩」
「うむ」
「えっと、その。お辛いのでしたら、普通に寝ちゃっていいですからね……?」
「ここに来て、出し抜けに素面になるな。……瀬戸際までは、付き合うさ」


◆【20150801】
「たそがれ時、誰そ彼。黄色の闇に、世界の全てが暮れる時。――目の前にいる彼が、はたして誰であるのかさえも、分からなくなるあわい」
「ああ」
「ちなみにですけど、この二文字。誰と彼とを逆にして、彼は誰、『かわたれ時』というのもあるそうです」
「あるな。……『たそがれ時』が、夕刻を示すのとは逆に、『かわたれ時』は、夜明け前を指すのだったか」
「さすが、先輩。その通りです」
「……ふむ。しかし、かわたれ――か」
「ん。先輩?」
「いや、なに。……『かわたれ時』があるのなら、『かわしお時』、『ももしお時』、『ずりしお時』、また或いは、『はつたれ時』、『つくねたれ時』の如きも、存在していて然るべきではないのかと――」
「……。前々から、ちょこっと思ってましたけど」
「う、うむ」
「先輩。焼き鳥、とにかくお好きなのですね……」


◆【20150802】
「むふふ。鶏胸肉、半額で買っちゃいましたー」
「何と。流石だ」
「不肖、後輩。闇の隙間に潜り込み、スーパーマーケットという名の戦場を駆け巡る、夕暮れ時のすないぱーです」
「今宵の任務においても、その冠する名に恥じぬ、優れた武勲を残したようだ」
「ええ、ええ。――であるからして、今日のばんごはんは、私にお任せ下さいな。冷蔵庫の野菜や卵も余さず使い、美味しい素敵な姉妹ど――、……あ……」
「……」
「……」
「……」
「――こほん。親子丼を、お出しして見せましょうっ」
「……まるで。何事も、無かったかのように」
「……うー。私も普通に恥ずかしいんですから、ここは流して下さいよ……」


◆【20150806】
「甘やかされている。そのように、重く実感せざるを得まい」
「……えっと。どなたが?」
「俺がだ」
「……えっと。どなたに?」
「君にだ」
「ちょ、ちょっと、整理の時間をくださいな。……つまり、私が、先輩を?」
「いかにも、その認識で違いない。……君が、俺を、過剰な迄に甘やかしている。俺が、君に、過剰な程に甘やかされている」
「えー、ええと……、……決して決して、そんなたぐいの事実は、実在しないと思うのですが……?」
「否」
「否っ!?」
「この事柄は、紛うことなき真実だ。鋼よりもなお硬く、海淵よりもなお深くある、絶対的な真実だ。……であるが故に」
「で、であるが故に……?」
「俺は、君に仕置きを受けねばなるまい。甘くなどない、手緩さなどない、寧ろ塩辛い対応を以て、処遇されなければなるまい」
「……」
「……」
「……先輩。ひょっとして、お酒に酔ったりしておられます?」
「残念ながら、俺は素面だ」


◆【20150806-2】
「そ、それじゃあ、先輩。……いいですか?」
「構わない」
「先輩の指に引っ掛けられているものは、いわゆるところの輪ゴムです。そしてそれは、精一杯まで引き伸ばされているのです。……せいいっぱい、せいっぱい、もはや千切れる寸前にまで、限界まで引き絞っていて」
「承知している」
「ほんとに、覚悟は、できていらっしゃるのですか。痛いですよ? たぶんきっと間違いもなく、すごくすごく痛いのですよ?」
「覚悟ならば、とうの昔に完了済みだ。……来るがいい」
「それじゃあ、――ふぁいあっ!」
「――っ」
「……」
「……」
「……あの。先輩」
「……」
「……涙目……!」


◆【20150809】
「夏休みー……」
「うむ」
「……というのを、全身全霊満喫中、――である筈、なのですけれど」
「ふむ。……夏休暇なる時空間を楽しむことに、現状として、何らかの瑕疵があるのだ、と?」
「いやー、あはは。贅沢な悩みだと、分かってはいるのですけど……」
「ああ」
「こう、戻らず流れる時間ばかりが、いたずらに浪費されていると言いますか。夏だから、夏なのに――と、何かやりたい、でも何をすべきかも分からない、そんなもやもやだけがただ、うずたかく積み上がっちゃっていると言いますか」
「……。君が感得しているそれは、万人に付き纏う、払うに厳しい苦境であると呼び得るものだ」
「むむ。やっぱり、そういうものなのですね」
「ああ。……さなる辛苦に悩まされつつ、しかし人は、手探りで歩を進めてゆく他ないのだろう。日差しに焦げた大地の上を」
「おお。りりかる」
「歩いていれば、いずれは風も吹き渡ろうさ」
「……ん。つまるところは、自然体で過ごしているのが一番、ですね」
「そういうことだ」
「ふふ。夏風まかせ、夏雲まかせ」


◆【20150812】
「先輩」
「……」
「ねえ、先輩」
「……ああ」
「この際、この折、この瞬間、もはやもう、恥じらいはいらないのです。そんなもの、夏の木立を吹き抜け渡る風のあわいで、手放しちゃえばいいのです」
「……」
「だから、先輩」
「う、うむ」
「最速で。最短で。真っ直ぐに。一直線に。――さあさあ、今このときの胸の響きを、言葉にしちゃってくださいな!」
「……了承した」
「では、どうぞっ」
「……、――な、なつ」
「……」
「やす」
「……」
「――み」
「……」
「……――夏、休、み――だ!」
「よく言えましたーっ!」


◆【20150813】
「んむ、先輩……今、何時……?」
「午前十一時半、だな」
「うぁ。私達、六時にはもう、目を覚ましてましたよね……」
「そうだな。……夙起し、顔を洗って、朝餉を取って、その直後には冷房を点け――」
「――それからずっと、ごろごろだらり。ひんやりとした空気の中で、夢とうつつを行き来しながら、タオルケットに包まっていて……」
「顧みるに、何たる退廃具合であることか」
「あはは。でも、そこがいい?」
「ああ。そこがいい」
「ん……」
「……ふむ」
「わ、えっと、先輩……?」
「うむ」
「う、うむと来ましたか……ん、さこつ……」
「……」
「うぁ、みみは、みみはちょっと……っ」
「うむ」
「うう。先輩が、何だか変なテンションに……」
「夏だから、仕方ないのさ」
「むむむ。こうなればもう、目には目を、歯には歯を、さわさわにはさわさわを……!」
「良かろう。来るがいい」


◆【20150814】
「んむ、先輩……今、何時……?」
「午後一時五十分、だな」
「うぁ。私達、五時にはもう、目を覚ましてましたよね……」
「そうだな。……夙起し」
「――って、すとっぷ!」
「うむ」
「あの、先輩。……まるで同じようなやりとりを、昨日も交わしたような気がするのですけど、気のせいじゃないですよね……?」
「……ああ」
「ついでに言えば、退廃的に過ごしたあわいは、昨日記録したそれよりも、二時間と少し増えていて……?」
「うむ。違いない」
「うあ……うぁー……、うああ……」
「……ふ」
「――笑ったぁっ!?」


◆【20150815】
「先輩。……絶対、ぜったいですよ?」
「ああ」
「明日こそは、明日だけは、明日その日ばかりは、ちゃんとしっかり早起きをして、そして目を覚ましていたいのです。先輩と一緒の夏休みの一日を、きっちりばっちり過ごしたいのです」
「なるほど」
「だから。だから、先輩。……もし私が二度寝をしたら、たたき起こして下さいね。何ならもう、ひじんどーてきな手段でだって構いませんから」
「了承した」
「約束ですよっ」

「……んむ、先輩……今、何時……?」
「午後二時半、だな」
「――っ、うぁ……うわああぁあああぁぁあーっ!?」
「ふ」
「――せんぱ……先輩ーっ!」


◆【20150816】
「うぁー……」
「うむ」
「……結局、先輩の夏休みの四日間、何ごとでさえもなすことなしに、ごろごろだらだらぼんやりと、消費し尽くしちゃいましたねえ……」
「そうと言えるな」
「んむう……」
「なに。夏季休暇の様態として、十分であり、十全なものであったさ」
「ん……、他ならない先輩が、そう仰るのなら」
「ああ」
「……んむむ、んむ……うにゃ」
「眠いのか」
「……ん」
「であるのならば、疾く伏すがいい。眠りたい時に眠れることは、人間として、最高峰の幸いだろう」
「……。じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」
「うむ」
「……でも。――でも、先輩」
「どうした」
「なんだかなぜだか、今日の眠りは、ずいぶん長いものになるような気がするのです。理由もないのに、何やら確かな予感があるのです」
「……ふむ」
「夢という名の、悠久を渡り歩いて。幻という名の、とこしえを踏み越えて。いつしか目が醒めたとき、きっと私は、私とは別の私で。先輩は、先輩とは別の先輩で」
「……」
「いま眠りに落ちてしまえば、大切であるはずの何かが、とてもとても大切であるはずの何かが、永劫の闇に落ちてしまう。落ちて、消えて、そして二度と戻ることはない。――そんなたぐいの確信が、どうしようもなくあって、拭い去ることができなくて」
「……」
「えっと、あの、ごめんなさい。……こんなのきっと、意味のない戯言で、内実のない妄言です」
「……。案ずるなと、言っておこう」
「……ん……」
「世界は明日も、ここにある。俺は明日も、ここにいる。――君の隣に、寄り添っている。その存在の本質が、今ここにあるそれと、まるで違っているのだとしても」
「……」
「君とは果たして、誰なのだろう。俺とは果たして、誰なのだろう。一分一秒、時の歯車が噛み合う都度に、人は、その持つ人格なるものは、留まることなく移ろっているのかも知れん。――明日の俺は、今日の俺とは、まるで違ったものであるのかも知れん」
「ん、む……」
「だが、この事実だけは絶対だ。……明日なる世界にある俺も、君の『先輩』であることだけは」
「……先輩」
「それを、忘れないでいて欲しい」
「――ん。……ふふ。先輩」
「ああ」
「でしたら私は、忘れません。夢幻のあわいで、思い出します。――今このときの先輩が、今このときの私に、今このときに仰ったこと。先輩が、ずっと私の『先輩』であるということ。今までも、今も、そしてきっとこれから先も。……それだけは、絶対に」
「……ああ」
「おやすみなさい。私の、先輩」
「ああ。おやすみ」
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